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心は脳で作れない?〔証明〕


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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 .3 .4 .5 .6 .7 .8 .9 .10 .11 .12 .13 .14 | 投稿日時 2015/5/28 3:36
SumioBaba 
                [梗概]
 
 ハードウェア・ソフトウェアの進歩により、ロボットは、チューリング・テストに合格できるような、いかにも心を持つかのように振る舞う機能(「客観的面」と呼んでおきます)を身に付けていくでしょう。ではその時ロボットは、彼自身にしか認識できない内面的自我(「主観的面」と呼んでおきます)の方も持つのでしょうか?
 現代科学の常識とされる次の[A]と[B]に注目します。
                 [A]
   すべての物理的相互作用は、光速以下で空間を伝わり、距離ゼロ
   まで接近して初めて及ぼし合える「局所的相互作用」であり、空
   間的距離を飛び越えて及ぼし合う「非局所的相互作用」など存在
   しない。
                 [B]
   心は脳の機能なのであって(心・脳同一説)、非物質的実体「霊魂」
   などは存在しない。
 この[A]と[B]を正しいと仮定すると、ロボットの人工知能はもちろん、人間の脳でさえ、物質粒子や光子で作り出せるのはたかだか「客観的面」の機能だけであり、「主観的面」の方は作り出せないことを、思考実験を用いて論証します。
 私は、自分の心すなわち「主観的面」の存在を実感していますから、それが錯覚でなければ、[A]と[B]の少なくとも一方は間違いだ、というのが、私の主張です。

 この論法、だいぶ前から公開しておりますが、正しく理解できる人は1000人に1人くらいです。正しいのか、間違っているのか、どなたか見極めて下さい。 
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/28 3:46
SumioBaba 
                [定義]

               「客観的面」
   他人の脳機能や言動を見て、そこに、心を持つと感じられるような
   機能の存在を認められるかどうか、を議論する側面。(「精神現象
   の客観的側面」の略。)

               「主観的面」
   デカルトの言う「コギト」、哲学で言う「クオリア」、心理学で言
   う「内観」、K・ポパーの言う「世界2」、D・チャーマーズの言う
   「主観的体験」、…すなわち、その人自身にしか認識できない内面
   的自我と呼ばれる側面。(「精神現象の主観的側面」の略。本論で
   用いる「心」という言葉は、常にこの「主観的面」を意味するので、
   これを「客観的面」と混同しないよう注意。)

              「局所的相互作用」
   光速以下で空間を伝わり、距離ゼロまで接近して初めて及ぼし合え
   る相互作用。現代物理学では、すべての物理的相互作用は「局所的
   相互作用」であると考える。

              「非局所的相互作用」
   空間的距離を飛び越えて及ぼし合う相互作用。量子力学で言う「非
   局所性」とは異なり、空間的距離をとび超えて情報を伝え、物理状
   態に影響を及ぼせる作用。
   これが存在すると、1個の素粒子の運動が全宇宙の物質に影響を受
   けて計算不可能になり、また、相対性理論に反して因果律を破壊す
   るなどの問題が生じるため、現代物理学では認められていない。


                [結論]
   「局所的相互作用」で構成できるのは、たかだか「客観的面」の
   機能だけであり、「主観的面」を作り出すためには「非局所的相
   互作用」が必要である。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/28 4:53
ゲスト 
                [証明]

                 [1]
 1人の正常な人間の脳Bの任意の一部をB1とし、残りの部分をB2とします。(B=B1+B2)。B1の表面外部に、B1をすっぽり包み込む微小厚さe(→0)の表面膜領域Beを考えます。Beは物質が詰まっていても良いし、空の空間でも構いません。B2からBe部分を除いた領域をB2-Beで表します。e→0の極限で、BeはB1とB2の境界面になり、B2-BeはB2になります。(具体的には、左脳をB1とする、1個のニューロンをB1とする、個々の分子・原子・素粒子をB1とする、等々)。

                 [2]
 まず「客観的面」とは、B1でもB2でもない第三者のメタ視点からB1とB2両方の物理状態を知覚し、両者の関係を認識できる人が、B=B1+B2全体の機能について議論する側面です。
 すると、B1にもB2にも単独では存在しない機能が、B全体の中には構成されていることが有り得ます(創発)。B1だけを見ていても、B全体の中でのB1の役割が定まらず、B2を含むB全体を見た時に初めて、B1の役割や意味が決定することも有ります(文脈依存性)。それでいて、B1とB2を何かが「非局所的相互作用」で結び付けていることを意味しないし、「霊魂」の存在も意味しません。「客観的面」の議論はそれで良いのです。

 (例えば、140億人の人間1人1人が1個のニューロンの役を演じ、全員で脳機能のシミュレーションを行ったとすると、個々の人間1人1人には存在しない高度な情報処理機能が、140億人全体の関係性の中に構成されているのを、メタ立場の観測者は知覚・認識でき、これが「客観的面」の機能です。)

                 [3]
 ところが「主観的面」の方は話が違います。現代科学の常識として、次の2つを仮定してみます。
   [A] 「非局所的相互作用」は存在しない。
   [B] 非物質的実体「霊魂」は存在しない。
 まず[A]の仮定から、B1の機能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)および、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定することになります。
 もちろん、B2-Beからの「局所的相互作用」が、Beを通過し、間接的にB1に影響を及ぼす、B2-Be→Be→B1という「局所的相互作用」の連鎖は有り得ます。しかし、この場合も、B1が「局所的相互作用」しているのはBeだけであり、B1とB2-Beとが「局所的相互作用」している訳ではありません。
 その証拠に、B2-Be部分を、物理状態の全く異なる人工的装置D1-Beで置き換えてD1-Be→Be→B1としても、Be→B1の部分の「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)さえ全く同じにすれば、B1はこの置き換えに気付けません。つまり、B1の機能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、B2-Beの物理状態には(Beの外側の物理状態がB2-BeなのかそれともD1-Beなのかといった違いには)無関係なのです。
 さらに[B]の仮定から、B1に随伴する心M1はB1の機能(の一部)だというのですから、M1の心理状態(時刻t0からt1まで)もまた、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、B2-Beの物理状態には(Beの外側の物理状態がB2-BeなのかそれともD1-Beなのかといった違いには)無関係なのです。

 (140億人の人間1人1人が1個のニューロンの役を演じ、全員で脳機能のシミュレーションを行っても、2人以上にまたがって随伴する大きな心の固まりは発生できません。[A]と[B]を正しいと仮定し、140億人全体をB、その中の任意の1人をB1としましょう。B1に随伴する心M1の心理状態(時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が外部表面膜領域Beから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、Beの外側の物理状態には無関係なのだから、当然です。これが「主観的面」の話です。「客観的面」と「主観的面」とを混同しないよう注意。10の27乗人の人間1人1人が1個の分子・原子・素粒子の役を演じて脳機能をシミュレーションする場合も、やはり、2人以上にまたがって随伴する大きな心の固まりは発生できません。)

                 [4]
 以上、「客観的面」と「主観的面」の違いを混同しなければ、[A]と[B]から、「主観的面」としての心については、次の[D]が結論されることが解ります。
                 [D]
   脳Bの任意の一部B1に随伴する心M1の心理状態(時刻t0からt1
   まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が外部表面膜領域Be
   から受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけ
   で決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には(Beの外側の物理状態
   がB2-BeなのかそれともD1-Beなのかといった違いには)無関係。
これを「脳と心の局所対応原理」と名付けます。
 この[D]は、とんでもない事を主張しています。B1を、脳Bを構成する個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子にまで小さく取ると、B1に随伴する心M1→0(無)でしょう。すなわち、脳Bのマクロな領域を「非局所的相互作用」が結び付けないと、「主観的面」としての心Mは、個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子にまで分解し、消滅することを意味しています。

                 [5]
 ところが実際には、私の脳Bには、様々な機能を持ちながらも「1つの心」という統一性を持った心M(≠0)が随伴しているのを実感します。例えば、映画を見ている時の私の心M=「映像を見、音声を聞き、ストーリーを楽しみ、ポップコーンを味わう心」がそれです。脳Bを構成している個々のニューロンをB1~Bn(nは約140億)とすると、この心Mは明らかに多数のニューロンB1、B2、B3、…にまたがって随伴する大きな心の固まりであり、[D]は成立していません。よって背理法により、[A]と[B]のどちらか一方は間違いと結論されます。
 実際このB1、B2、B3、…にまたがって随伴する大きな心の固まりMは、こう解釈できます。「B1に随伴する心M1の心理状態(時刻t0からt1まで)が、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が外部表面膜領域Beから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定せず、Beの外側に在るB2、B3、…の物理状態にも『非局所的相互作用』により影響を受けている状態」。
 つまり、[A]と[B]を仮定すると[D]が成立し、2個以上のニューロンにまたがって随伴する大きな心の固まりMは発生できません。逆に、2個以上のニューロンにまたがって随伴する大きな心の固まりMが発生できたなら、[D]は成立しておらず、「非局所的相互作用」の存在が結論され、[A]と[B]の少なくとも一方が否定されます。

 (この「非局所的相互作用」が、脳を構成している物質粒子や光子の中に存在する、と考えるなら、[A]が誤り。物質粒子や光子に「非局所的相互作用」など無い、と考えるなら、非物質的実体「霊魂」が脳のマクロな領域を「非局所的相互作用」で結び付けていることになり、[B]が誤りです。)

 なおこの論法では、自分の心M(≠0)の存在と物質世界の実在性とを暗黙の前提としているため、これらのどちらかを疑うこともできると考えるなら、選択肢は4つになります。
               [選択肢1]
   心すなわち「主観的面」は錯覚であり、存在しない。
               [選択肢2]
   現代物理学の常識に反し、物質や光の中に、空間的距離を飛び越
   えて作用する「非局所的相互作用」が存在する。([A]が誤り)。
               [選択肢3]
   現代科学の常識に反し、非物質的実体「霊魂」が存在する。([B]が
   誤り)。
               [選択肢4]
   物質世界の方が実在していない(観念論)。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/29 5:17
SumioBaba 
    《補足説明1》チューリング・テストと中国語の部屋

(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.41】』からの引用です。)

 コンピュータによる人工知能AIは心を持ち得るか否か?という論争において、「チューリング・テスト」「中国語の部屋」「ホージランドの悪魔」「サールの悪魔」と呼ばれる思考実験が有名です。140億人の人間による脳機能のシミュレーションというのも、こういった論争の中で出て来る話です。

 まずA・チューリングが考えた「チューリング・テスト」では、コンピュータが人間と対等に会話できれば、コンピュータは思考している、と見なされます。
 質問者と応答者とが別の部屋に入れられます。質問者は人間であるのに対し、応答者の方は人間またはコンピュータです。質問者の質問に応答者がどう答えたかを、仲介者が質問者に教えてくれます。このような会話により、質問者が応答者のことを「人間と同等な思考能力を持つので、人間だろうと思う」と認めたとしましょう。もし応答者がコンピュータであったなら、コンピュータは人間と同等の思考機能を持つ、と認定されます。

 一方、これに反発したのがJ・サールの「中国語の部屋」という思考実験です。自分は1つの部屋の中に居て、中国語で書かれた文書が投げ入れられます。自分は中国語を全く知らないので、それは意味不明の記号列に過ぎません。ただ、部屋の中には、入力された意味不明の記号列に対し、どういう意味不明の記号列を出力すれば良いかを英語で詳しく説明したマニュアルが完備されています。それに忠実に従うことで、出力するための意味不明な記号列を完成させ、部屋の外に投げ出すことができます。
 もしマニュアルの内容が適切であれば、入力された文書と出力された文書とを、いかにも中国語で人間が会話をしているかのような関係にすることもできるでしょう。例えば、「今日仕事が終わったら、食事に行かないか」「いや、今日は見たいテレビがあるから明日にしよう」のように。中国語を理解できる人が見たら、部屋の中の自分はいかにも中国語を理解して会話しているかのように見えるはずです。にも拘わらず部屋の中の自分は、入力された記号列も出力した記号列も意味不明のままであり、何も意味を理解していません。
 コンピュータのやっている事がまさにこれであり、たとえ人間と同等の会話をできたとしても、それは言葉を意味不明の記号列として処理しているだけであって、意味を理解する心など何も持たない、…と主張したのがサールでした。拙著の言葉で表現すると、「たとえコンピュータが人間と同等に会話する機能を持ち得たとしても、それは「客観的面」の機能だけであり、「主観的面」は発生していない」と言えます。まさにその通りです。

 しかし、J・ホージランドやD・ホフスタッターが、サールに反撃しました。脳を構成する140億個のニューロン相互間で、情報伝達がうまくいかない病人がいるとします。この人の脳に、分子サイズの小さな悪魔が宿り、ニューロン相互間の情報伝達を正常に保ってくれているとします。脳は正常に機能しているのだから、この病人は立派に心を持っています。この悪魔を「ホージランドの悪魔」と呼びます。この悪魔は、脳機能を補助する方法は知っていますが、病人がどんな心の状態を体験しているのかは全く知りません。そして「中国語の部屋」に入っている自分は、この「ホージランドの悪魔」を大きくしただけのものであり、ホフスタッターはこれを「サールの悪魔」と呼びます。つまり、部屋の中の自分は、処理している中国語の意味を理解していなくても、部屋全体は中国語の会話機能を持っているのだから、部屋全体は中国語の意味を理解しているのだよ、と反論したのです。
 人間の脳を構成している140億個のニューロン1個1個は、自分が今どんな脳機能を構成しているかなど、何も知りません。にも拘わらず、自分は自分の事しか知らないニューロンが140億個絡み合って相互作用することで、脳B全体には複雑高度な情報処理機能が構成され(これが「客観的面」)、脳B全体に複雑な状態の心M(≠0)が発生しています(これが「主観的面」)。
 だとしたら、「中国語の部屋」の話でも、部屋の中で作業する人間を1人でなく140億人に増やすと、同じ事が言えそうです。個々の作業員は意味不明の記号列を処理しているだけであるにも拘わらず、140億人を含む部屋全体には中国語の会話機能が構成されているのだから(これが「客観的面」)、部屋B全体にこの中国語の意味を理解している心M(≠0)が発生するはずだ(これが「主観的面」)、というのがホージランドやホフスタッターの考えです。

 サールの論法は、大変もっともな主張をしてはいるのですが、なぜ「中国語の部屋」の話で部屋B全体に心M(≠0)が発生できないのかを、証明していません。直観的に、「そんなもの有り得ない」と感じるのは確かですが、証明しなければ説得力は有りません。しかも、ホージランドやホフスタッターが指摘した通り、人工知能AIについて言えることは、人間の脳Bについても言えてしまいます。人工知能AIには言えること=「たとえ人間と同等に会話する機能を持ち得たとしても、それは「客観的面」の機能だけであり、「主観的面」は発生していない」が、なぜ人間の脳Bには言えないのか、そこが不明なのです。

 人工知能AIであろうと、「中国語の部屋B全体」であろうと、140億人Bであろうと、人間の脳Bであろうと、[A]と[B]とを仮定すれば、構成できるのはたかだか「客観的面」の機能だけであり「主観的面」の方は作り出せないことを、きちんと証明して見せたのが拙著です。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/12/5 4:52
SumioBaba 
    《補足説明2》右脳不在のパラドックス

(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.42】』からの引用です。)

 心が脳の機能に過ぎないと考えると、変なことになってしまう思考実験です。右脳B2を捨ててしまい、左脳B1に人工的装置D1を接続したB1+D1という状態にし、今でも右脳B2が左腕の痛みを訴えているかのようなニセ情報を左脳B1に送り込みます。この時左脳B1は、「左腕が痛い」と言語表現するでしょうか? 左脳B1に随伴する心M1は、左腕の痛みを感じるのでしょうか?

 私の左脳をB1、右脳をB2とし、言語機能はB1に、左腕の感覚領域はB2に在る、とします。両者が接続された正常な脳B=B1+B2の状態で、私の左腕に針を刺すと、B全体に随伴する私の心Mは、B2で左腕の痛みを感じ、B1で「左腕が痛い」と言語表現できます。
 そこで右脳B2を切り捨て、左脳B1だけにします。ただし、左脳B1に人工的装置D1を接続したB1+D1という状態にし、いかにも右脳B2がまだ接続されていて、左腕の痛みを訴えているかのようなニセ情報を、D1からB1に流し込んでやるとします。(正確には、正常な脳B=B1+B2の状態で左腕に針を刺され、「左腕が痛い」と言語表現していた時と全く同じB1の「初期状態」(時刻t0)および、B1がBeから受けていた「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)を、D1からB1に与えてやります。)
 [A]=「非局所的相互作用は存在しない」と[B]=「霊魂は存在しない」の2つを仮定すると、B1の機能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が無限小近傍Beから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定しますから、左脳B1は右脳B2の不在に気付けず、「左腕が痛い」と言語表現することになります。左腕の感覚領域を持つ右脳B2は、もはや存在していないのに、です。この時私は、左腕の痛みを感じているのでしょうか?、いないのでしょうか?  これを「右脳不在のパラドックス」と名付けます。

 [A]と[B]を正しいとすると、B1+D1の状態で、本当は左腕の痛みなど感じていないはずなのに、私の左脳B1は「左腕が痛い」と言語表現することになります。そうすると、正常な脳B=B1+B2の状態で私の左腕に針を刺された場合も、私は本当に左腕の痛みを感じているのかどうか、判断できなくなります。たとえ右脳B2に、左腕の痛みを発生させる機能など無くても、右脳B2が、左脳B1に「左腕が痛い」と言語表現させるための「局所的相互作用」を送り込む機能さえ持っていれば、私の左脳B1は「左腕が痛い」と言語表現してしまうからです。
 私は、右脳B2で本当に左腕の痛みを感じ、それを左脳B1で言語表現しているのか、それとも私は、右脳B2で左腕の痛みなど感じていないのに、左脳B1が自動機械(ゾンビ?)として「左腕が痛い」と言語表現しているだけなのか、私自身、判断できなくなります。「いや、自分は確かに左腕の痛みを感じ、それを言葉で表現しているのだ!!」と主張してもダメです。「そんなのウソだ。貴方の右脳B2を人工的装置D1に置き換えたって、貴方は左腕の痛みが無くなった事に気付けず「左腕が痛い」と言ってしまうじゃないか」と言われてしまうでしょう。「本当の事を言うと、今すでに貴方の右脳B2は人工的装置D1に置き換えられているのに、貴方はそれに気付いておらず、「左腕が痛い」と言語表現してしまっているんだよ」と言われる恐れも有ります。
 切り捨てるB2は右脳の場合だけでなく、脳Bの任意の一部でも同じ事が言えます。そして、「心(主観的面)はすべて錯覚だ(両手両足の痛みも、色や形が見えているというのも、音が聞こえるというのも、喜びや悲しみを感じているというのも)」という主張が成立してしまいます。

 B1に随伴する心M1と、B2に随伴する心M2が、互いに相手の存否および状態と無関係に、自分の存否と状態を決めてしまうようでは、M1とM2は独立していることになります。
 M1とM2とが融合して「1つの心」Mになっている、と言えるための必要条件は、M2の存否および状態に応じて、それに矛盾せぬよう、M1の状態が臨機応変に対応できることだと思われます。すなわち、左腕の痛みを感じているM2が近接して存在する時にだけ、M1が確実に「左腕が痛い」と言語表現できることではないでしょうか?

 そこで逆を仮定してみます。私は、自分が左腕の痛みを感じているのかどうかを確実に知り、正しく言語表現できると仮定してみます。すると、正常な脳B=B1+B2の状態で私の左腕に針を刺した場合には、私の左脳B1は「左腕が痛い」と言語表現します。B1+D1の状態で、いかにもB2が左腕の痛みを訴えているかのようにB1を騙している時には、私の左脳B1は「左腕は痛くない」と言語表現することになります。
 これら2つの場合で、B1に与えられる「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)は、全く同じと考えています。それなのに、B1の機能に差が生じるというのです。すなわち、B1の機能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは決定せず、『非局所的相互作用』により、B2-BeとD1-Beの物理状態の違いにも、左右されていることになります。
 つまり、「主観的面」としての心が錯覚でないためには、「非局所的相互作用」または非物質的実体「霊魂」が実在し、しかもそれは、物理的に検出可能なものでなければならない、ということです。「霊魂説」を選ぶなら、「並行説」ではなく「相互作用説」であることが必要です。

 物理的に検出可能な「非局所的相互作用」がB1とB2を結び付けなければ、正常な脳B=B1+B2の状態で、B1とB2がどんなに親密に相互作用していようと、それが「局所的相互作用」である限り、B1に随伴する心M1と、B2に随伴する心M2とは、独立してしまいます。B1でもB2でもないメタ立場の観測者は、正常な脳B=B1+B2状態において、B1とB2の両方が存在することを認識できますが、B1(M1)とB2(M2)とは、「局所的相互作用」だけでは、互いに相手の存否すら知り得ないからです。B1(M1)は、自分に接続されているのがB2(M2)なのか、それとも人工的装置D1なのかを知り得ないし、B2(M2)は、自分に接続されているのがB1(M1)なのか、それとも人工的装置D2なのかを知り得ません。
 そして、B1に随伴する心M1とB2に随伴する心M2は独立しているがゆえに、M1にとってM2は他者の心であり、その存否や状態を知り得ないことになったのです。それが「右脳不在のパラドックス」なのです。
 2をn(≧2)に一般化し、脳Bをn個の部分B1~Bnが接合されている、と解釈した場合も同じです。個々のBi(i=1、2、…、n)は、現在自分が正常な脳Bを構成している状態(接続状態)なのか、それとも人工的装置Diに接続されたBi+Diという状態(擬接続状態)なのかを、知り得ません。だから正常な脳Bの状態でも、個々のB1~Bnに随伴する「主観的面」としての心M1~Mnは、互いに独立していることになります。メタ立場の観測者は、個々の部分B1~Bnには無い高度な情報処理機能が、B全体に構成されている事を認識できますが、それは「客観的面」の話ですから、混同してはいけません。

                《結論》
   私の心が、B1だけに随伴する心M1ではなく、B=B1+B2全体に随伴
   する心Mになるためには、B1の機能(B1の物理状態の時間発展、時
   刻t0からt1まで)が、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeか
   ら受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは
   決定せず、『非局所的相互作用』により、B2-Beの物理状態にも(Be
   の外側に存在するのがB2-Beか、それとも人工的装置D1-Beか、と
   いう違いにも)影響を受けることが必要。

 量子力学には、「波動関数の重ね合わせ・干渉・収縮」「EPR相関」「絡み合い」「対称性の自発的破れ」…等々、古典物理学には無かった奇妙な性質がいろいろ出てきますが、この《結論》を説明できるものは、量子力学の中にも無いのではないでしょうか?
 量子力学と、心の脳内非局所性とは、密接な関係が有るように感じます。ただ、量子力学で心(意識)を説明するのではなく、逆に、心と脳の間の「非局所的相互作用」から量子力学が導き出せるのではないか、と考えたくなります。

 「霊魂説(相互作用説)」を仮定すれば、説明は極めて簡単です。「霊魂」がB1+B2全体に随伴する時は、「霊魂」が右脳B2で左腕の痛みを感じるので、左脳B1に物理的作用を及ぼして「左腕が痛い」と言語表現します。「霊魂」がB1+D1全体に随伴する時は、「霊魂」は人工的装置D1で左腕の痛みを感じないので、左脳B1に物理的作用を及ぼして「左腕は痛くない」と言語表現します。B1の機能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)は、「霊魂」から受ける『非局所的相互作用』にも依存するので、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは決定しません。ただそれだけの事です。
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SumioBaba 
    《補足説明3》「局所的相互作用」の特徴

(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.43】』からの引用です。)

 本物の星から来た1個の光子が、私の目に入る時、それがどういう影響を私に及ぼすかは、私の目に入る時点での光子の物理状態だけで決定し、目に入る前の過去の履歴は無関係です。だから、プラネタリウムの壁から来た光子でも、私の目に入る時点での物理状態が本物の星の場合と全く同じなら、私はどちらを見ているのか、識別できなくなります。これが「局所的相互作用」の特徴であり、「プラネタリウムの原理」と呼んでおきます。
 脳Bの一部をB1、残りの部分をB2とします。B2からB1に及ぼされる「局所的相互作用」は、多数の光子や物質粒子から構成されていると思われます。それらを1個ずつ、人工的装置D1a、D1b、D1c、…を用いてB1に与えるとします。D1aは、B2からB1に与えられていた1個の素粒子と全く同じ状態の素粒子をB1に送り込む機能さえ持っていれば、どんな物理状態でも構いません。D1a自身が1個の素粒子でもOKです。D1b、D1c、…も同様。さらに、D1a、D1b、D1c、…の間に相互作用は不要なので、独立していても構いません。これら独立したD1a、D1b、D1c、…の総和を人工的装置D1だと解釈すれば、D1にB2と同等の機能を認めることはできないし、D1が左腕の痛みを感じている、と考えるのも無理でしょう。

 B1+B2の状態において、B2の物理状態の自由度と、B2がB1に及ぼす「局所的相互作用」の自由度とは、三次元立体の形状の自由度と、それが地面に落とす二次元的影の形の自由度の関係に似て、「多対一」の関係です。B2がB1に及ぼす「局所的相互作用」の方を定めても、B2の物理状態は定まりません。だから、B2を全く物理状態の異なるD1で置き換えていながら、D1がB1に及ぼす「局所的相互作用」を、B2がB1に及ぼしていた「局所的相互作用」と全く同じにすることが、理論上可能になります。
 一方、「非局所的相互作用」の方は、B2の物理状態の自由度と、B2がB1に及ぼす「非局所的相互作用」の自由度とが、「一対一」の関係であると考えます。すると、B2を物理状態の異なるD1で置き換えていながら、D1がB1に及ぼす「非局所的相互作用」を、B2がB1に及ぼしていた「非局所的相互作用」と同じにすることは、原理的に不可能です。両者を同じにするためには、D1とB2の物理状態そのものを全く同じにせねばなりませんが、この時は、B2をD1で置き換えたことの意味が無くなってしまいます。

 「局所的相互作用」の特徴は、光速以下で空間を伝わり、距離ゼロまで接近して初めて及ぼし合える作用だという点です。
 脳全体をB、その中の1個のニューロンをB1、残りの部分全体をB2とします(B=B1+B2)。さらに、B1をすっぽり包み込む微小厚さe(→0)の外部表面膜領域をBe、B2からBe部分を除いた領域をB2-Beで表します。B1に随伴する心がM1です。[A]=「非局所的相互作用は存在しない」と[B]=「霊魂は存在しない」の2つを仮定します。
 B全体を見渡せるメタ立場の観測者から見ると、B2-Be内部から出た信号が、「B2-Be→Be→B1」という流れを経てB1に影響を及ぼしているのを知覚できます。だからついつい、「B2-Beの物理状態がB1に(そしてB1に随伴する心M1に)影響を及ばした」→「B1に随伴する心M1は、B2-Beの物理状態に影響を受けている」と考えてしまいます。しかし[A]を仮定している以上B1は、B2-Beの物理状態など何も知らないし、知り得るのは最後の部分Be→B1の「局所的相互作用」による影響だけなのです。
 脳BからニューロンB1だけを取り出して人工的装置D1に接続したB1+D1という状態にし、B2は捨ててしまいます。もはやB2は存在せず、「B2-Be→Be→B1」という「局所的相互作用」の連鎖など無いのに、いかにもそれが有るかのようなニセ情報を人工的装置D1の中で作り出し、「D1-Be→Be→B1」という経路でB1に送り込みます。「B2-Be→Be→B1」の場合と「D1-Be→Be→B1」の場合とで、Be→B1の部分の「局所的相互作用」が全く同じであれば、B1(M1)はBeの外側の物理状態がB2-BeなのかD1-Beなのかを知り得ません。だから[D]が導かれました。
                 [D]
   脳Bの任意の一部B1に随伴する心M1の心理状態(時刻t0からt1
   まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が外部表面膜領域Be
   から受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけ
   で決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には(Beの外側の物理状態
   がB2-BeなのかそれともD1-Beなのかといった違いには)無関係。

 なぜB1の物理状態やM1の心理状態は、B2-Beの物理状態には無関係なのでしょう? 答は簡単です。[A]と[B]の2つを仮定している以上、B1が相互作用(もちろん「局所的相互作用」)しているのはBeとだけであり、B2-Beとは何の相互作用もしていないから、です。
 もし[A]や[B]を否定して「非局所的相互作用」の存在を認めるなら、B1はBeと「局所的相互作用」するだけでなく、B2-Beとも「非局所的相互作用」することになります。そうすると、B1の物理状態(時刻t0からt1まで)や心M1の心理状態(時刻t0からt1まで)は、B1の初期状態(時刻t0)、および、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定せず、Beの外側の物理状態にも(それがB2-Beなのか人工的装置D1-Beなのかという違いにも)「非局所的相互作用」により影響を受けるはずです。そして現実には、それが起きているからこそ、多数のニューロンにまたがって随伴する大きな心の固まりM(≠0)が発生し得ているのです。

 電磁気力や重力を、空間を飛び越えて距離の二乗に反比例した力を及ぼす「非局所的相互作用」かのように思い込んでいる人も多いようですが、それは誤解です。これらも「局所的相互作用」です。電磁気力は光子、重力は重力子と呼ばれる素粒子が、光速で空間を伝わってきて距離ゼロまで接近して初めて及ぼせるのであり、空間を飛び越えることはできません。つまり、B1が周囲から受ける電磁気力も重力も、B1がBeから受ける「局所的相互作用」に含まれます。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/2/14 6:30
SumioBaba 
    《補足説明14》マインズ・アイ[ある脳の物語]

(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.54】』からの引用です。)

 『マインズ・アイ』(上・下)[D・R・ホフスタッター/D・C・デネット編著、坂本百大監訳、ティビーエス・ブリタニカ、1984]の第12章に、「ある脳の物語」(アーノルド・ズボフ)という、拙著の論法によく似たSF小説(?)が在りますので、紹介しておきます。哲学者たちの間でよく知られた、いわゆる「培養槽の中の脳」をテーマにしたものです。

 脳以外の身体すべてを失った、哀れな人間が登場します。脳だけが、培養槽の中で生かし続けられています。友人たちが、この脳に人工的な電気刺激を与え、いかにも身体を持って様々な活動をしているかのような全脳的経験を、この脳に生じさせてやろうとします。SF小説という形を取っているため、脳機能は完全に解明されていて、人間がどういう体験をする時に、どのような脳状態になっているか、1個1個のニューロンについてすべて解っている、という前提です。
 ところが、ちょっとしたトラブルが発生します。酒に酔った守衛がつんのめった拍子に、培養槽の中の脳を力任せにわしづかみにし、脳が左脳と右脳の2つに分断されてしまいました。さてどうしよう?というところから、話が始まります。

          第1段階「微小電線」
 正常な脳では、左脳と右脳が脳梁と呼ばれる神経の束で接続され、情報のやり取りをしています。この脳梁が切断されてしまった状態にあり、これを元通りに修復するのは、不可能ではないけれど、かなりの時間がかかってしまうと予想されます。
 そこで、左脳と右脳とを、人工的な「微小電線」で接続してはどうか?という提案がなされました。要は、脳(=左脳+右脳)全体が正常な情報処理機能を再現できれば良いのであって、その一部を、生物の細胞から人工的な「微小電線」に変えたところで、何も影響は無いと思われるからです。左脳も右脳も、脳梁が人工的な「微小電線」に置き換えられた事実に、気付くことさえないでしょう。すなわち、脳(=左脳+右脳)全体に、相変わらず全脳的経験が生じるはずです。

          第2段階「インパルス・カートリッジ」
 「微小電線」の欠点が暴露されました。正常な脳の状態で、左脳と右脳の間の脳梁を通る情報伝達に比べると、「微小電線」を伝わる方がいくらか時間が多くかかり、左脳と右脳の情報処理パターンが乱れてしまうことが判ったからです。
 そこで、「インパルス・カートリッジ」なるものが提案されます。2つの「インパルス・カートリッジ」を用意し、左脳と右脳の切断面に1つずつ接続します。左脳に接続された「インパルス・カートリッジ」は、左脳が右脳へ伝えようとしている情報をすべて読みとり、それを電波に変換し、無線で情報を送信します。右脳に接続された「インパルス・カートリッジ」は、無線で送られて来た情報を受信し、それを右脳に与えるべき物理的作用に逆変換し、右脳へと送り込みます。逆に、右脳から左脳へと情報を送る場合も同様です。
 これだと、2つの「インパルス・カートリッジ」の間では、左脳と右脳の間におけるニューロンのインパルスによる情報伝達を、一度電波に変換して送信し、それを受信した後、再びニューロンのインパルスに逆変換する、という作業がはさまります。しかし、左脳も右脳もそんな事には気付けないし、脳(=左脳+右脳)全体の機能は、完全に同じものを再現できます。すなわち、相変わらず脳(=左脳+右脳)全体に、全脳的経験が生じるはずです。

          第3段階「インパルス・プログラマー」
 ところがこの「インパルス・カートリッジ」でも、やはり情報伝達にわずかばかり余分な時間がかかる事が判り、うまくいかない事が指摘されました。
 そこで提案されたのが、「インパルス・プログラマー」です。ある体験に対応する脳機能は、個々のニューロン1個1個のインパルス発火のタイミングまで、すべて解明ずみです。左脳と右脳との間で、どういう情報がどういうタイミングでやり取りされるかも、すべて解っています。だとしたら、実際に左脳と右脳の間で、リアルタイムで情報のやり取りをしなくても、いかにも情報のやり取りをしているかのような情報を、左脳と右脳に与えることが可能です。つまり、いかにも左脳から右脳へと送られて来たかのような情報を、右脳に接続された「インパルス・カートリッジ」の中で作り出し、右脳に与えれば良いのです。もちろん、左脳の方も同様です。これが「インパルス・プログラマー」です。
 この「インパルス・プログラマー」を使えば、左脳と右脳の間に、リアルタイムで情報伝達する必要は、全く無くなります。左脳+「インパルス・プログラマー」と、右脳+「インパルス・プログラマー」の2つを、近くに置く必要も無く、どんなに遠く離れた位置に置くことも可能です。それでも、左脳と右脳は、相変わらず正常な脳状態にあると錯覚しているはずであり、脳(=左脳+右脳)全体に、全脳的経験が生じるだろう、と科学者たちは話し合います。(このへんから、話がおかしくなっていきます。)

          第4段階「同調の放棄」
 脳(=左脳+右脳)全体の機能を、左脳+「インパルス・プログラマー」と、右脳+「インパルス・プログラマー」の2つに分離した状態で再現しています。両者の間に、物理的相互作用は何も有りません。だとすると、2つのシステムの機能を同時に「同調」させて再現する必要も無いのではないでしょうか。左脳も右脳も、互いに自分と相手が「同調」しているか否か、知ることもできないはずですから。
 すなわち、ある日、左脳+「インパルス・プログラマー」の方だけで、脳機能の左半分だけを再現し、他日、右脳+「インパルス・プログラマー」の方だけで、脳機能の右半分だけを再現します。やはりこれでも、脳(=左脳+右脳)全体に、全脳的経験が生じることになる、と科学者たちは結論します。

          第5段階「ニューロンにまで分解」
 脳全体の機能を、左脳と右脳の2つに分解して再現しても、相変わらず脳(=左脳+右脳)全体に全脳的経験が生じるというのですから、もっと多くの部分に分解しても同じ事が言えるはずです。
 脳を百数十億個のニューロンに分解し、ニューロン+「インパルス・プログラマー」を百数十億個別々に用いて脳機能を再現しても、やはりそれら全体に、全脳的経験が生じることになる、と科学者たちは結論します。

 (さらに、「多数のニューロンのインパルス発火を、1個のニューロンだけで兼用しても良いはずだ」とか、「1個のニューロンの1回だけのインパルス発火を、多数のニューロンのインパルス発火のどれでもあると解釈できるはずだ」とか、「私の脳や友人の脳や他人の脳の中に、あらゆるタイプのニューロン発火が存在するはずだから、それらを適当に組み合わせれば、あらゆる種類の全脳的経験が、それらのニューロン全体に発生していることになる」、…など、いくつかの飛躍が説明されます。)

 以上、A・ズボフの論法の要点を、5段階に分けて説明してみました。第2段階から第3段階への飛躍が、とてもうまく説明されていると思います。第2段階までは、左脳と右脳の間でリアルタイムの情報伝達が行われていました。第3段階で、左脳と右脳は完全に独立してしまい、両者の間の物理的相互作用は無くなります。しかし、その違いを識別できるのは、メタ立場の観測者だけであり、左脳も右脳も、自分が第2段階と第3段階のどちらの状況に置かれているのか、知る術が無いのです。この話は、何を言おうとしているのでしょうか?
 これに対しD・C・デネットが、編者短評で次のような疑問を示しているのですが、これが典型的な問題のすり替えなのです。
   たとえば、ある人がミケランジェロの「ダビデ像」と顕微鏡で調
   べても寸分たがわぬ(しかも大理石の)複製を自分の家にもってい
   ると主張したとしよう。あなたがその大理石の像を見に行くと、
   二十フィート(約六メートル)の高さのほぼ直方体の白い大理石の
   塊が、彼のリビングルームに置かれているだけである。「僕はま
   だ中身を取り出す暇がなくてね」と彼は言う。「だけど、複製が
   その中にあるのは確かなんだよ」
   多分、書物などという代物はそもそも必要ないことを、ズボフと
   同じやり方で証明する議論を組み立ててみれば、彼の議論がばか
   げたものだということが納得されよう。すなわち、彼の伝でいく
   と、アルファベットの一式を一度だけ印刷すれば事足れりであり、
   書物の出版など一切無用ということにはなるまいか。いや、アル
   ファベット一式だって印刷する必要があろうか。一字だけで、あ
   るいは一字画だけで間に合うのでは。さらに、一つの点だけでは
   どうだろう。
デネットが言いたいのは、こういう事です。
   脳B全体の状態を見渡せるメタ立場の視点から見ると、「正常な
   脳Bの状態」と、「個々のニューロンB1~Bnに分解され、それ
   ぞれが人工的装置D1~Dnに接続されたB1+D1、B2+D2、…、Bn+Dn
   という状態」とは、明らかに異なる。
   正常な脳Bでは、全体に複雑・高度な情報処理機能が構成されて
   いるが、B1+D1、B2+D2、…、Bn+Dnでは、そのような情報処理機
   能は消滅しているのだから、両者を同一視することはできない。
これは、メタ立場に立った「客観的面」についての話です。

 一方、ズボフが言っているのは、こういう意味です。
   個々のニューロンB1~Bnは、現在自分が「正常な脳Bの状態」に
   置かれているのか、それとも「個々のニューロンB1~Bnに分解さ
   れ、それぞれが人工的装置D1~Dnに接続されたB1+D1、B2+D2、…、
   Bn+Dnという状態」なのかを識別できない。
つまり、ズボフは「主観的面」についての話をしているのです。
 どちらの主張も正しいのですが、ズボフは「主観的面」についての問題提起をし、デネットはそれを「客観的面」の話ですり替えてしまった訳です。「心・脳問題」についての混乱は、いつもこれら両面の混同から始まります。
 個々のニューロンB1~Bnが、正常な脳Bを構成しているのか、それともばらばらに分解されたB1+D1、B2+D2、…、Bn+Dnという状態にあるのかを識別できるのは、メタ立場の観測者だけであって、個々のB1~Bnはその違いを知り得ません。個々のB1~Bnの機能が時間的に「同調」しているのかどうかも、メタ立場の観測者だけが知り得るだけで、個々のB1~Bnは知る事ができません。個々のB1~Bnは、自分以外のn-1個が本当に存在しているのかどうかさえ知らないのです。

 ズボフの主張を、私なりに言い換えると、こうなります。
   正常な脳→第1段階→第2段階→ … →第5段階と変形させる
   と、「客観的面」の機能の方は分解して消滅するが、「主観的面」
   の方は何も変わらない。
ズボフは、SF小説としての面白みを出すために、
   正常な脳では、全脳的経験が発生している。ゆえに、第5段階でも、
   全体に全脳的経験が発生する。
という常識外れな結論を出して見せています。正しくは、逆に推論すべきでしょう。
   第5段階では、全脳的経験など何も発生しない。第5段階→第4段
   階→ … →第1段階→正常な脳と変形する時、「客観的面」の方
   は高度な情報処理機能が発生するが、「主観的面」の方は何も変わ
   らない。ゆえに、正常な脳でも、全脳的経験すなわち「主観的面」
   としての心は何も発生しない。
です。個々のB1~Bnを時間・空間内に複雑に配置することで、個々の部分には無い高度な情報処理機能をB全体に構成することは可能ですが、それは「客観的面」だけの話。「主観的面」の方は、何も作り出せません。これが、ズボフの問題提起なのです。

 もちろん、
   [A] 「非局所的相互作用」は存在しない。
   [B] 非物質的実体「霊魂」は存在しない。
の2つを正しいと仮定した場合の話です。ズボフは、特に明記してはいませんが、この[A]と[B]が正しい事は、暗黙の前提にしているように思われます。

            ***** 引用文献 *****
    マインズ・アイ  ---コンピュータ時代の「心」と「私」---
          D・R・ホフスタッター/D・C・デネット編著
          坂本百大監訳 TBSブリタニカ 1984
    (THE MIND'S I 
             by D.R.Hofstadter and D.C.Dennett 
    Copyright 1981 by D.R.Hofstadter and D.C.Dennett)
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/2/14 7:28
SumioBaba 
    《補足説明20》「心」と「意識」と「自我」

(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.60】』からの引用です。)

 本論で用いる「心」という言葉は、すでに説明した通り、精神現象の「主観的面」の意味です。
          「主観的面」
   デカルトの言う「コギト」、哲学で言う「クオリア」、心理学で言
   う「内観」、K・ポパーの言う「世界2」、D・チャーマーズの言う
   「主観的体験」、…すなわち、その人自身にしか認識できない内面
   的自我と呼ばれる側面。(「精神現象の主観的側面」の略。本論で
   用いる「心」という言葉は、常にこの「主観的面」を意味するので、
   これを「客観的面」と混同しないよう注意。)
そして、その反意語が「客観的面」です。
          「客観的面」
   他人の脳機能や言動を見て、そこに、心を持つと感じられるような
   機能の存在を認められるかどうか、を議論する側面。(「精神現象
   の客観的側面」の略。)

 「心」(mind)とよく似た言葉として「意識」(consciousness)や「自我」(self)、…などが有り、それぞれ微妙にニュアンスが異なると思われます。しかも、日本語だと「心」と「意識」のどちらでも良さそうなのに、英訳する時は、「mind」なのか「consciousness」なのか、はっきり区別した方が良い場合も有ります。
 1999年に、Tokyo'99 Toward a Science of Consciousness という「意識科学」の国際会議でポスター発表した経験が有りますが、英訳する時、私が使っている「心」の8割くらいは「consciousness」に、2割くらいは「mind」に対応し、しかも両者を区別して欲しくない状況のため、「consciousness (or mind)」などと、苦しい表現になってしまったのを覚えています。
 本論では、「客観的面」と「主観的面」とが同一現象の二側面だと言えるのかどうか、を問題にしています。「客観的面」が「脳(および身体)」であり、「主観的面」が「心」「意識」「自我」…です。これら2つの関係を議論するためには、「心」「意識」「自我」…を使い分けていると、却って不便になります。そこで、「心」「意識」「自我」…といった言葉をすべて統一して「心」という言葉を使っている訳です。そうすれば、
   「脳」と「心」
という2つの言葉で表現し易くなるからです。

 【『意識とはなにか』---<私>を生成する脳、茂木健一郎著、筑摩書房、2003】という本の中に、同じようなことが書いてあります。(P21-22からの引用です。)

 「意識」(consciousness)と「心」(mind)は、しばしばほとんど同義の言葉として使われる。しかし両者は、厳密にいえば少しニュアンスが異なる。「意識」が<私>によってハッキリと把握されるさまざまな表象の世界を指すのに対して、「心」は、無意識をも含めた精神の働きを指す。本書では、ときに「意識」と同義の言葉として「心」を用いるが、その際には「心」の指す精神の働きのうち、特に「意識」される部分を表すものとする。//

 この点には私も全く同感であり、「心」という言葉の使い方も、殆ど同じ立場を取っています。

 脳科学者の茂木健一郎氏と言えば、もう10年以上前になりますが、新宿のルノアールという会議室に聴衆を30人くらい茂木氏が集めてくれて、みんなの前で2時間くらい、私SumioBabaが、この「心は脳で作れない?」の証明についての説明をしたことがあります。ただその時は、茂木氏を含め誰一人理解者が現れず、落胆して帰ったのを覚えています。
 ところがそれから数年後、茂木氏の著作内容が大きく変わったように感じました。2つほど引用させて頂きます。

   【『茂木健一郎の脳科学講義』、茂木健一郎著、ちくま文庫、2008】
 神経科学の学生は、勉強をはじめる第一日目に、「脳の活動をモニターする小人がいるわけではない」と習うんです。過去五〇年ぐらいの神経科学の研究はそれが前提になっていた。だけど、その前提がおそらくだめなんです。…。脳のなかにはじつは小さな神の視点があるんですよ。視覚野の数十億の神経細胞が活動して私たちはいまこうやって見ているわけですね。一個一個の神経細胞は、脳のなかで隣りの神経細胞しか見えない。そこから神経細胞の関係性が生まれてくるんだけれども、関係性が生まれてくるためには関係性を見渡す何かが必要なんですね。それを「小さな神の視点」というふうに言っているわけです。それはいままでの脳科学のなかで徹底的に隠されてきた。神経細胞を外からだけ見ていれば情報表現は扱えるというウソにもとづいて研究してきた。脳科学で最大の問題はそこで、それを突破するのは掛け値なしにむずかしい。でもこの一歩がないとおそらくクオリアの問題など先に行けない。…。宇宙の一つひとつの粒子というのは自分のことしかわからない。…。二つの粒子がぶつかってはね返ったという記述ができるためには、それを見渡している仮想的な神の視点がいる。物理学をはじめとする自然科学はそうした視点を仮想したわけだけれど、我々人間の場合は、脳のなかに小さな神の視点がある。…。脳のなかに小人がいるというようなことは、近代的な脳科学は誕生のときから全部一度否定したんだけれども、それはある意味で本質的な問題を隠蔽することでもあったわけです。いろいろな意味で、われわれはものを考え直さなければいけない時期にきているんですね。もうちょっと言うと、ぼくは魂などということも考えていいと思うんですよ。//

   【『響きあう脳と身体』、茂木健一郎・甲野善紀著、新潮文庫、2008】
 というのも、僕はある面では「もういいや」と諦めているところもあるんです。それは、僕が考える「ほんとうのこと」にはそう簡単にたどりつけないし、問題意識を共有することすら、相当難しいと考えているからです。僕の場合、クオリアをライフワークにしているわけですが、そのクオリアがどのように脳から生じてくるのかがもしわかったら「一〇〇ノーベル」だ、っていつも言うんです。ノーベル賞が一個もらえるのが一ノーベルだとして、クオリアの解明は一〇〇ノーベルくらいの価値があり、それくらい難しい、ということです。…。ただ、それだけ難しい問題となると、当然、問題のあり方そのものを理解できる人も少ないわけです。クオリアというテーマを、本当に実感を伴って理解できる人は日本で一〇〇〇人いないだろうな、というのが正直なところなんですよ。//

 このあたり読むと、茂木氏は、SumioBabaの言いたかった事を100%理解して下さったように思えます。新宿ルノアールでの2時間は、決してムダではなかったようです。

 さらにもう20年くらい前になりますが、この「心は脳で作れない?」は、もっと論文らしいタイトルにして、日本認知科学会、日本超心理学会、日本理論心理学会の3つにわざわざ入会し年会費を払いながら投稿したものの、いずれも査読で落とされてしまい、正式な発表はいまだにできていません。
 拙著に対する査読者のコメントは、【No.54】に書いた、アーノルド・ズボフの「ある脳の物語」に対するD・C・デネットのコメントそのものでした。私は「主観的面」についての問題提起をしているのに、査読者は「客観的面」の話にすり替えて反論する、というパターンです。茂木氏が指摘しておられる通り、何が問題なのか解らない人には全く解らないようです。「脳を分割しているときには心も分割されている」「脳を接合すれば心も接合される」「それで何がおかしいのか?」「何が問題なのかがさっぱり理解できない」という反応でした。


 この「心は脳で作れない?」についての詳しい説明は、Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』《メールマガジン31~60》(ASIN:B01AXG6LQW)の中(【No.40】~【No.60】)にあります。
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SumioBaba 
            第三の腕のパラドックス
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.69】』からの引用です。)


 人間の脳は、身体の感覚を感じる主体ではなく、身体の受けた物理的刺激に関する情報を心に伝達するための「通路」でしかない、という事実を示唆してみます。

 人間の脳は、左右2つの脳半球から成り、右腕の感覚領域は左脳の中に、左腕の感覚領域は右脳の中にと、交叉して存在するそうです。自分の右腕、左腕、左脳、右脳に、次のように記号を付けます。
   RH : 右腕(Right Hand)
   LH : 左腕(Left Hand)
   BRH : 右腕の感覚領域(Brain of Right Hand = 左脳)
   BLH : 左腕の感覚領域(Brain of Left Hand = 右脳)
対応関係の方を重視しているので、左脳がBRH、右脳がBLHと逆表現になっている点に注意して下さい。
 さてここで、第三の脳半球と、それに神経でつながる第三の腕を用意したとします。これにも記号を付けましょう。
   MH : 第三の腕(Middle Hand)
   BMH : 第三の腕の感覚領域(Brain of Middle Hand = 第三の脳半球)
そしてこのBMHを、人工脳梁を用いてBRH+BLHに接続し、3つの脳半球を対等な関係にしたとします。MHに針を刺すと、BMHが痛みを感じている時の興奮状態になります。果たしてこの時、「自分の心」は、MHの痛みを感じるでしょうか? また、もし感じるとしたら、どこでそれを感じるのでしょう? BMHの中でしょうか? BRH+BLHのどこかでしょうか? それとも自分の「霊魂」でしょうか?

 まず、「霊魂」の存在を否定する[心・脳同一説](心は脳の機能に他ならない)の立場に立つと、当然次のように考えねばなりません。
            [心・脳同一説]による説明
   「自分の心」は、RHの痛みを、その感覚領域を持つBRHで感じ、
   LHの痛みを、その感覚領域を持つBLHで感じる。
   同様に「自分の心」は、MHの痛みを、その感覚領域を持つBMH
   で感じる。
3つの脳半球は物理的には対等な関係ですから、[心・脳同一説]を支持する限り、BMHだけを仲間外れにすることはできず、BMHも「自分の脳の一部」になる、と考えるしか有りません。そうでないと、BRH+BLHとBMHとの間に、何か「非物質的」な違いが有ると、認めたことになってしまうからです。

 ところがこの全く同じ状態に対し、もう1つの解釈が成立します。「自分の心」の存在領域はあくまでBRH+BLHの2つだけであり、BMHを「そこに接続された、ただの異物」と見なしてみましょう。するとBMHは、MHの受けた刺激に関する情報を、BRH+BLHに伝えてくれるための、ただの「通路」に過ぎません。つまりBRH+BLHは、人工脳梁から伝えられる情報だけで、そこに何が接続され、どういう状態にあるのかを推測することしかできません。つまり、伝えられた情報を、BRH+BLHの中でMHの痛みに変換できて初めて、BRH+BLHに随伴する「自分の心」はMHの痛みを感じる、とせねばならなくなります。ところがBRH+BLHの中には、MHの感覚領域など存在しません。ゆえに「自分の心」は、MHの痛みを感じ得ない、と結論することになります。

 (こう考えると解り易いと思います。BRH、BLH、BMHを対等な関係に接続した状態を「接続状態」と呼びましょう。人工脳梁を切断して、BRH+BLHとBMHとを再び分離したとします。ただし、人工脳梁の切り口からBRH+BLHに、今でもBMHがMHの痛みを訴えているかのようなニセ情報を、人工的に流し込んでやるとします。BMHの方にも、今でもBRH+BLHが接続されているかのようなニセ情報を、人工脳梁の切り口から流し込みます。本当は、BRH+BLHとBMHとの間に、もはや相互作用は何も有りません。しかし、BRH+BLHにもBMHにも、今でも3つの脳半球が接続されているかのように錯覚させています。これを、BRH+BLHとBMHの「擬接続状態」と呼んでおきます。
 この「擬接続状態」でBRH+BLHに随伴する「自分の心」は、MHの痛みを感じるはずが有りません。BRH+BLHは、そのような機能を持たないからです。だとしたら、今再び「接続状態」に戻しても、すなわち、人工脳梁でBRH+BLHにBMHを接続し、BMHがMHの痛みを訴える情報をBRH+BLHに本当に送って来ても、やはりBRH+BLHに随伴する「自分の心」は、MHの痛みを感じるはずが有りません。なぜならBRH+BLHに随伴する「自分の心」は、人工脳梁から送られて来る情報が、BMHからのものなのか、それともニセ情報なのかを識別できず、今再びBMHが接続された事実に気付けないからです。)

 物質的には、3つの脳半球BRH、BLH、BMHが対等な関係に接続された、BRH+BLH+BMHという全く同じ状態です。それなのに、「自分の心」がMHの痛みを感じるかどうかで、はっきり異なる2つの状態が存在します。いかにもこの差は、非物質的実体「霊魂」の状態差であるように見えます。すなわち、次のような説明です。
             [霊魂説]による説明
   もし自分の「霊魂」が、3つの脳半球BRH+BLH+BMH全体に広がって
   相互作用できるなら、「自分の心」は、RHの痛みをBRHで、LHの
   痛みをBLHで感じるのと同様、MHの痛みをBMHで感じる。この時
   BMHは、「自分の脳の一部」になる。
   もし自分の「霊魂」が、2つの脳半球BRH+BLHだけに広がり、BMH
   とは相互作用できなかったなら、たとえ3つの脳半球が物質的に対
   等に接続されていても、「自分の心」は、RHの痛みをBRHで、LH
   の痛みをBLHで感じるだけであり、MHの痛みを感じ得ない。この時
   BMHは「自分の脳BRH+BLHに接続された、ただの異物」に留まる。

 以上の論法を[第三の腕のパラドックス]と名付けます。[心・脳同一説]の立場に立つと、2つの解釈の違いを説明する方法が見付からない、という意味でパラドックスです。[霊魂説]の立場に立つと、その違いは「霊魂」の状態差であるとして、きれいに説明可能です。


                《反論1》
   具体的にBMHを、BRH+BLHのどこにどう接続しろというのか? 
   (接続する場所など有るものか!!)
という反論は、あまり重要ではありません。要するに、脳(および身体)を「2」から「3」へと拡張した時に、心も「2」から「3」へ拡張される、と断言して良いだろうか?という抽象論で十分だからです。
 [心・脳同一説]の立場なら、脳(および身体)が「2」から「3」へ拡張されると、必然的に心の方も「2」から「3」へと拡張されることになるでしょう。一方、[霊魂説]の場合には、たとえ脳(および身体)が「2」から「3」へと拡張されても、「霊魂」が「2」のままであれば心も「2」のままです。心が「3」に拡張されるためには、「霊魂」が「3」に拡張されねばなりません。その点を問題にしているのが、この論法なのです。
   BRH+BLH → BRH+BLH+BMH
の拡張が、どうしても想像しにくいと感じるなら、
   BRH → BRH+BLH
の拡張を考えましょう。すなわち「1」から「2」への拡張です。まず、BRHにRHが接続されただけの「1」の状態で、「自分の心」はRH1本の感覚だけを感じ得る状態です。そこへ、BLHとそれにつながるLHを接続し、BRH+BLH状態にします。これが「2」です。BLHを「自分の脳の一部」と解釈すれば、「自分の心」は、RHの痛みをBRHで、LHの痛みをBLHで感じることになります。BLHを「自分の脳BRHに接続された、ただの異物」と解釈するなら、「自分の心」は、RHの痛みはBRHで感じても、LHの感覚は持てません。

 もっと重要な反論が有ります。
                《反論2》
   もし「霊魂」がBRH+BLHだけと相互作用し、BMHと相互作用できな
   かったら、RH、LH2本の腕の感覚しか持てないと言うが、本当に
   3つの脳半球がBRH+BLH+BMHと対等な関係に接続されているのなら、
   MHに針を刺した時にも「痛い」と言うはずである。RH、LHに針を
   刺した時には「痛い」と言うのに、MHに針を刺した時にだけ言わ
   ないとすると、BRH、BLH、BMHが対等な関係に接続されていないこ
   とになるのではないか?
[霊魂説]にも大きく分けて、[相互作用説]と[並行説]の2つが有ります。どちらの立場を取るかという問題です。
 まず[相互作用説]は、身体(脳を含む)と「霊魂」とが物理的相互作用を行うと考えます。つまり、人間がどう行動するかは、身体と「霊魂」の両方を含めた相互作用によって決定され、身体だけの物理的メカニズムでは決定できません。そうすると、RHやLHに針を刺した時には「痛い」と言うのに対し、MHに針を刺した時には、「痛くない」と言えるかもしれません。3つの脳半球は物質的には対等ですが、「霊魂」の方は3つの脳半球に対等に宿っている訳ではないので、MHの時にだけ行動に差が生じても、矛盾ではありません。
 一方[並行説]の場合にはこうは行きません。この説は、身体と「霊魂」との間に、物理的相互作用は無い、と考えます。身体は身体だけで、厳密な物理法則に従って行動すると考えます。「霊魂」はただ、身体の物理状態に対応した心理状態を体験するだけです。従って、3つの脳半球が物質的に対等な関係にあるのなら、行動もまた3本の腕に関して対等でなければなりません。すなわち、RHやLHに針を刺した時に「痛い」と言うのであれば、MHに針を刺した時にも「痛い」と言うことになります。たとえ「霊魂」が、BRH+BLHだけと相互作用し、BMHとは相互作用していない場合においても、です。つまり、RHやLHが「痛い」と言う時には、そのような言動としての「客観的面」に、「主観的面」として実際に痛みを感じるクオリアが随伴しているのに対し、MHが「痛い」と言う時には、そのような言動としての「客観的面」だけであり、「主観的面」すなわち痛みというクオリアは何も随伴していない、という意味です。しかし、これは奇妙です。本当はMHの痛みを感じていない事実を、自分は意識できるのでしょうか? もし意識できるとすると、「痛くない」と言葉で表現しようとしても、身体が勝手に「痛い」と言ってしまうという、心身ばらばらの状態になってしまい、もはや[並行説]でさえなくなってしまいます。しかし、逆にそれを意識できず、MHの痛みも感じるように錯覚してしまうとすると、RHやLHの痛みも同様な錯覚だと考えられ、「主観的面」すなわちクオリアのすべては錯覚だ、という主張が通ってしまうでしょう。これも困った事態です。

 そもそも[並行説]は、物質以外に「霊魂」という非物質的実体の存在を主張していながら、それを決して物理的に実証できない事をも、同時に主張しています。おまけに、我々人間が明らかに「霊魂」の実在を感じ、「霊魂」が実在するかのように行動したとしても、それらすべてが、「霊魂」を無視した身体の物理的メカニズムだけで説明できる、と主張します。それゆえ[並行説]は、哲学では成立し得ても、経験科学においては無意味な仮説と見なすべきかもしれません。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/13 6:53
SumioBaba 
            脳の健全性と心の健全性
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.112】』からの引用です。)


 心・脳関係について私が問題提起しているジレンマは、脳が従う物理法則と心が従う心理法則とが全く異なる性質を持っており、両者が同一のものとは考えられない?という点にあります。具体的には、以下で説明するとおり、「脳の健全性」と「心の健全性」とが両立しない、という点に問題が有ります。

              「脳の健全性」
   脳Bの物理状態の時間発展が、現在正しいと思われている物理法
   則に忠実に従っている、とする考え方。
   Bの任意の一部をB1、残りの部分をB2とし(B=B1+B2)、B1をすっ
   ぽり包み込む微小厚さe(→0)の外部表面膜領域をBe、B2からBe
   部分を除いた領域をB2-Beで表す時、B1の物理状態の時間発展
   (時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が
   Beから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだ
   けで決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には無関係、という内
   容を指す。
   B2-Beを、全く異なる物理状態B2’-Be(あるいは人工的装置D1-Be)
   で置き換えても、B1の「初期状態」(時刻t0)および、B1がBeか
   ら受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つが全く
   同じなら、B1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は同じ
   ものになる、という意味。e→0の極限で、B2-BeはB2になり、Be
   はB1とB2との境界面になる。
   「脳の物理状態の時間発展は、局所的物理法則に従う」と表現し
   ても良い。

              「心の健全性」
   「1つの心」Mの内部では、Mの視点に立つことで個々の部分M1、
   M2、M3、…の視点に同時に立つことができ、個々の部分M1、M2、
   M3、…がM全体の状態に影響を受けつつ、内部矛盾が無いかどう
   かを自己認識しながら、Mの心理状態が時間発展していく、という
   自分の心の無矛盾性を保証する性質。
   物質世界や自分の心の状態を正しく知覚・認識し、論理的に物事
   を考え、哲学や科学を議論するために、必然的に要求される仮定。
   もし、M1の心理状態とM2の心理状態とが互いに影響を及ぼし合
   うことなく、M1とM2とが矛盾した状態にあることをM1やM2が
   認識できない場合、M1とM2とはもはや「1つの心」Mの部分では
   なく、独立した2つの心であり、それゆえ互いに相手の存在も状
   態も知り得なくなっている、と見なすことになる。
   「心の心理状態の時間発展は、非局所的心理法則に従う」と表現
   しても良い。

 さらに、脳Bが従う物理法則と、心Mが従う心理法則が、全く異なる事実を強調するために、[BとMの不一致]という表現を用います。

              [BとMの不一致]
   現在の物理学が正しいとすると、脳Bの方は、任意の一部B1の機
   能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)が、B1の「初
   期状態」(時刻t0)および、B1がBe(無限小近傍)から受ける「局所
   的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、残りの部
   分B2-Beの物理状態には依存しないはず。
   ところが、B1に随伴する心M1の状態は、この2つだけでは決定せ
   ず、残りの部分B2-Beの物理状態にも影響を受けており、その結
   果B全体に随伴する心Mは、B1だけに随伴するM1でもなければ、
   B2だけに随伴するM2でもなく、そのようなM1とM2の独立した和
   でもない状態になっている。

 そして「脳の健全性」の方は、以下の2点を正しいと仮定したところから生じています。[A]と[B]を正しいとすると「脳の健全性」を支持することになり、逆に「脳の健全性」を否定すれば、[A]と[B]の少なくとも一方を否定することになります。
                 [A]
   すべての物理的相互作用は、光速以下で空間を伝わり、距離ゼロ
   まで接近して初めて及ぼし合える「局所的相互作用」であり、空
   間的距離を飛び越えて及ぼし合う「非局所的相互作用」など存在
   しない。
                 [B]
   心は脳の機能なのであって(心・脳同一説)、非物質的実体「霊魂」
   などは存在しない。

 もし「脳の健全性」を支持するなら、脳Bをn個の部分B1~Bnが接合されていると解釈した時、個々のB1~Bnに随伴する心M1~Mnは独立していることになり、B1~Bnの2個以上にまたがる大きな心の固まりは発生できなくなります。B1~Bnを、個々のニューロン(nは約140億)、個々の分子・原子・素粒子(nは10の27乗くらい?)、にまで小さく取れば、個々のB1~Bnに随伴する心M1~Mnはどれも「無」でしょう。脳Bに随伴する心Mは、個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子に随伴する心M1~Mnにまで分裂し、消滅することになります。つまり、「心の健全性」が否定され、それは心Mの存在そのものを否定してしまいます。

 もし「心の健全性」を支持するなら、脳Bの一部であるB1の機能(B1の物理状態の時間発展、時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは決定せず、B1がB2-Beから受ける「非局所的相互作用」にも影響を受けている、と考えることが必要です。これは、「脳の健全性」を否定する内容であり、[A]と[B]の少なくとも一方を否定することになります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/17 0:08
SumioBaba 
            脳の健全性と心の健全性(2)
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.113】』からの引用です。)


 心・脳問題には様々な仮説が存在するようですが、ここでは重要なものとして、[随伴現象説]、[霊魂説(並行説)]、[創発説]、[霊魂説(相互作用説)]の4つを考えてみます。簡単に言うと、「脳の健全性」を支持し、「心の健全性」を犠牲にしてしまうのが、[随伴現象説]と[霊魂説(並行説)]。逆に、「心の健全性」を支持し、「脳の健全性」を犠牲にしてしまうのが、[創発説]と[霊魂説(相互作用説)]です。

      <<「脳の健全性」を支持。「心の健全性」は無視。>>

 まず[随伴現象説]は、物質が人間の脳ほどの高度な情報処理を行う「客観的面」の機能を持つと、そこに自ずと心・意識・自我と呼ばれる「主観的面」が随伴するのだ、と考えます。ただし、[随伴現象説]の特徴は、心M→脳B、という物理的作用を認めない点です。従って、脳Bの物理状態の時間発展は、心Mの存否を考慮する必要は無く、現在の物理学ですべて説明できることになり、「脳の健全性」を支持することになります。

 [霊魂説(並行説)]もよく似ています。脳以外に、非物質的実体「霊魂」の存在を認める点で[随伴現象説]とは異なるものの、「霊魂」→ 脳、という物理的作用を認めません。従って、脳Bの物理状態の時間発展は、「霊魂」の存否を考慮する必要は無く、現在の物理学ですべて説明できることになり、「脳の健全性」を支持することになります。

 このように、[随伴現象説]と[霊魂説(並行説)]は、「脳の健全性」を全面的に支持する立場です。ところがそうすると[BとMの不一致]により、「心の健全性」の方が完全に否定されます。
 心Mは、個々の部分M1、M2、M3、…の状態を同時に認識しながら、それらの間に論理的整合性を満たしつつ、矛盾の無い関係に保つことで初めて、「1つの心」Mとして存在できるのです。ところが「脳の健全性」を全面的に支持してしまうと、脳Bの任意の一部B1に随伴する心M1もまた、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つで決定せねばならなくなり、次の[D]に到達しました。
                 [D]
   脳Bの任意の一部B1に随伴する心M1の心理状態(時刻t0からt1
   まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が外部表面膜領域Be
   から受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけ
   で決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には(Beの外側の物理状態
   がB2-BeなのかそれともD1-Beなのかといった違いには)無関係。
ここでB1は、個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子でも成立しますから、脳Bに随伴する心Mは、個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子にまで分裂し、消滅することになります。

 解り易い例え話として、140億人の人間1人1人が1個のニューロンの役を演じ、(あるいは、10の27乗人の人間1人1人が1個の分子・原子・素粒子の役を演じ)、全員で脳機能をシミュレーションする話を挙げました。140億人全員をB、その中の1人の人間を私B1だと考えます。
 B全体を見渡すことのできるメタ立場の観測者は、個々の人間には無い高度な情報処理機能がB全体に構成されていることを認識できますが、それは「客観的面」の話であって、心すなわち「主観的面」の話ではありません。「主観的面」としての心の方は、140億人の心、(あるいは、10の27乗人の心)、が独立したままであり、B全体に随伴する「1つの心」Mに融合していません。その証拠に、140億人(10の27乗人)の中の誰か1人の視点には立てますが、2人以上の視点に同時に立つことは不可能です。
 これは、[A]=「非局所的相互作用は存在しない」と[B]=「霊魂は存在しない」の2つを仮定すると必然です。[A]と[B]から[D]が言えるので、Bを構成している1人の人間である私B1に[D]を適用します。私の身体B1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1が無限小近傍Beから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけで決定し、残りの部分B2-Beの物理状態には依存しません。私の身体B1の物理状態の時間発展が、この2つで完全に決定する以上、私の身体B1に随伴する私の心M1の心理状態(時刻t0からt1まで)もまた、この2つで完全に決定します。それが、私だけでなく、140億人の人間1人1人について、(10の27乗人の人間1人1人について)、言えます。つまり、2人以上にまたがる大きな心の固まりは発生できないことになります。

      <<「心の健全性」を支持。「脳の健全性」は無視。>>

 [創発説]は、物質が人間の脳ほど高度な情報処理を行う「客観的面」の機能を持つと、部分の性質からはとても予想できない性質を持つ「主観的面」としての心・意識・自我が、脳機能全体に発生すると考えます。しかも脳B全体に発生・随伴する心Mの心理状態が、脳Bの個々の部分に対してトップダウンの物理的作用を及ぼす、と主張したのが、分割脳(分離脳)の研究で有名な、R・スペリーでした。これは極めて大胆な主張ですが、急所を突いています。
 この立場に立つと、脳Bの一部であるB1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは決定せず、B全体の物理状態(脳B全体に随伴する心Mの心理状態)にも影響を受けることになり、「脳の健全性」が否定されることになります。ただし、非物質的実体「霊魂」の存在は認めません。

 [霊魂説(相互作用説)]の方もよく似ています。この説は、「霊魂」→脳、という物理的作用の存在を認めます。だから、脳Bの一部であるB1の物理状態の時間発展(時刻t0からt1まで)は、B1の「初期状態」(時刻t0)と、B1がBeから受ける「局所的相互作用」(時刻t0からt1まで)の2つだけでは決定せず、3つめの要因として「霊魂」から受ける物理的作用にも依存するため、B全体の物理状態(脳B全体に随伴する心Mの心理状態)にも影響を受けることになり、「脳の健全性」が否定されることになります。

 このように、[創発説]と[霊魂説(相互作用説)]は、「心の健全性」を全面的に支持する立場です。ところがそうすると[BとMの不一致]により、「脳の健全性」の方が否定されます。つまり、脳の物理状態の時間発展は、既存の物理法則に従っていないことになります。「既存の物理法則に従っていない」という表現は、非科学的に見えるかもしれませんが、量子力学における波動関数収縮の原因がよく解っていません。「量子ゼノン効果」や「逆量子ゼノン効果」は、確かに存在することが実験的に検証されています。これらが実は、心が物質世界へ及ぼす「第5の力」かもしれません。(→参考文献『心が脳を変える』ジェフリー・M・シュウォーツ/S・ベグレイ著、吉田利子訳、(株)サンマーク出版、2004)。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/19 7:37
SumioBaba 
           霊魂説〔(1)新陳代謝と霊魂説〕
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.101】』からの引用です。)


                [要約]
 仮に「霊魂」と呼ばれるような非物質的実体が、自分の身体(脳)に宿っていると仮定してみて下さい。現在の自分の身体(もちろん、脳を含む)を構成している全原子の個数をP個とし、原子1~Pと呼ぶことにすると、これらは新陳代謝により少しずつ、殆どすべてが外部の物質である原子1'~P'に入れ代わっていきます。脳も例外ではありません。にも拘わらず「霊魂」の方は出て行かず、一生自分の身体に存続すると考えてみましょう。すると自分の「霊魂」は、原子1~Pの身体に存在する状態から、原子1'~P'の身体に存在する状態へ変わります。言わば、現在の自分の身体(原子1~P)のコピー(原子1'~P')を作り、自分の「霊魂」を、オリジナルの身体(原子1~P)からコピーの身体(原子1'~P')へ移し入れたのと同じ結果になる、という訳です。新陳代謝で、まさにそのような現象が起きているではないか!?、と主張します。//

 次の質問をされた場合を考えてみましょう。他人事ではなく、自分がこの質問を受けた場合を、切実に考えて下さい。
                [質問A]
   キミ(原子1~P)のコピー(原子1'~P')を作った後、どちらか一方
   を殺さねばならない。どちらを生かし続けて欲しいか? できれば
   オリジナルのキミの方が、コピーの身代わりに死んでくれないか?
私の答は、もちろんノーです。
   絶対に、オリジナルの身体(原子1~P)の方を生かし続けて欲しい!!
と答えます。
 この点に関し、「オリジナルの自分とコピーの自分とは同一人物なのだから、どちらが死んでもいい」と反論する人がいますが、これは、私の言いたい意味を曲解しているように思います。こういう答をする場合、第三者の客観的視点に立っていると思われるからです。確かに、他人のオリジナルとコピーのどちらか一方を殺すと言われたなら、自分は「どちらでもいい」と答えそうです。しかし、自分自身が尋ねられたら、どうでしょう? もしオリジナルの自分を殺すのであれば、オリジナルの自分は殺されます。もしコピーの自分を殺すのであれば、オリジナルの自分は生き続けることができます。オリジナルの自分にとって、どちらを殺されるかは、生きるか死ぬかの大問題です。「殺されるのと、生き続けるのと、どちらがいいですか?」と尋ねられているのと同じですから、「どちらでもいい」ということは無いでしょう。「自分は生き続けることを望んでいる、という前提で答えるものとする」という常識的な判断基準を定めれば、答は直ちに「オリジナルの自分を生かし続けて欲しい」になるはずです。

 では、次の質問だとどうでしょうか?
                [質問B]
   現在キミの身体は原子1~Pで構成されているが、新陳代謝により
   1年後には、完全に外部の原子1'~P'に入れ代わる。脳も例外で
   はない。実はこれから1年間、キミの老廃物の中から原子1~P
   をすべて拾い集め、1年後にそれらを用いて、キミ(原子1'~P')
   のコピー(原子1~P)を作る。その後、どちらか一方を殺さねばな
   らないのだが、キミ(原子1~P)とキミ(原子1'~P')のどちらを生
   かし続けて欲しいか? 今、キミ自身で決めてくれ。
これだと私の答は逆転し、
   原子1'~P'に代わってしまった身体の方を生かし続けて欲しい!!
です。

 基本的にはこれだけの話です。まさに自分の「霊魂」が、原子1~Pの身体から原子1'~P'の身体に移し入れられたように感じているではないか!?という論法です。これまで、数多くの人々とこの論法について議論しましたが、ほぼ100%、[質問A][質問B]に対する答は私と完全に一致していました。

 なお、よくこういう質問をする人がいます。
   オリジナルの「自分」とコピーの「自分'」とは、同一人物だろうか?
   それとも他人だろうか?
これは基準の取り方次第で、答がどちらにもなる愚問です。例えると、「3と8は同じ部類に属すか?、それとも別の部類に属すか?」と聞いているようなものです。「整数か?、非整数か?」で分類するなら、3も8も整数で、同じ部類に属します。「奇数か?、偶数か?」で分類するなら、3は奇数、8は偶数で、別の部類に属します。せっかく面白い問題提起なのに、「答は定まらない」という、曖昧な結論で終わってしまいそうです。正確には、こう尋ねるべきだと思われます。
   オリジナルの「自分(今日)」にとって、オリジナルの「自分(明日)」
   とコピーの「自分'(明日)」は、対等な存在だろうか?
ただし、コピーの「自分'(明日)」は今夜作られる予定だとします。そしてこの場合、同一性を判断するレベルが3つ有ります。
               【レベル1】
   「自分(今日)」と「自分(明日)」と「自分'(明日)」の3人を、す
   べて別人と見なす。
               【レベル2】
   「自分(今日)」と「自分(明日)」とは同一人物であるが、「自分'
   (明日)」だけは別人と見なす。
               【レベル3】
   「自分(今日)」と「自分(明日)」と「自分'(明日)」の3人を、す
   べて同一人物と見なす。
どれが正しいのか、一概には決め付けられません。与えられた問題によって、どのレベルで判断すべきかは、様々だからです。そして、[質問A][質問B]に答える時、我々はどうも【レベル2】で判断しているようであり、それは何故か?という点が問題なのです。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/20 19:58
SumioBaba 
            霊魂説〔(2)「実体を持つ存在」と「実体を持たぬ存在」〕
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.102】』からの引用です。)


 「脳」は実体を持つ物体であるのに対し、「心」はその機能であって実体を持たない、という表現をよく聞きます。コンピュータに例えると、「ハードウェア」が「脳」、「ソフトウェア」が「心」である、という表現も有ります。本当にそうでしょうか? この問題にメスを入れるため、「実体を持つ存在」と「実体を持たぬ存在」を、次のように定義します。
   「実体を持つ存在」=「質料」+「形相」
   「実体を持たぬ存在」=    「形相」
「ハードウェア」と「ソフトウェア」の関係が、「実体を持つ存在」と「実体を持たぬ存在」の関係に、ほぼ対応します(完全に一致とは言えませんが)。なお「質料」「形相」という言葉は、アリストテレスが考えた概念だと言われています。

 全く同じ「ハードウェア」を持つ2台のコンピュータA1とA2で、全く同じ「ソフトウェア」a1とa2を作動させている状況を考えましょう。

 A1とA2は「ハードウェア」すなわち「実体を持つ存在」であり、「質料」と「形相」の両方を持っていますから、たとえA1とA2が原子1個も異ならぬほど全く同じ「形相」(物質構造)をしていたとしても、A1は原子1~Qで構成されているのに対し、A2は他所から持ってきた原子1'~Q'で構成されているからやはり両者は別物だ、という具合に、「質料」の違いで両者を区別することができます。原子1~Qと原子1'~Q'とが「質料」として別物と見なされる理由は、同一時刻に異なる空間位置を占めているからです。従って、次の2つを区別することは有意味です。
   {1} A1がX1室に、A2がX2室に置かれている状態
   {2} A1がX2室に、A2がX1室に置かれている状態
{1}と{2}では、A1とA2とが、X1室とX2室との間で、場所交代されています。もう一度場所交代すれば、元に戻ります。
 一方、a1とa2は「ソフトウェア」であり、「実体を持たぬ存在」ですから、「形相」だけしか持ちません。つまり、a1とa2が1ビットも異ならない「形相」(数学的構造)を持っているのであれば、直ちに両者は同一であり、次の2つの区別は無意味です。
   {3} a1がA1の中で、a2がA2の中で作動している状態
   {4} a1がA2の中で、a2がA1の中で作動している状態
a1とa2の区別は無視し、どちらもaで統一すれば、
   {3・4} aが、A1とA2の中で作動している状態
と表現できます。
 {1}と{2}の区別が有意味なのは、A1とA2が「実体を持つ存在」だからであり、{3}と{4}の区別が無意味なのは、a1とa2が「実体を持たぬ存在」だからである点に注意して下さい。

 (他の例を挙げれば、「本そのもの」は「実体を持つ存在」であるのに対し、「本に書かれていること(意味的な内容)」は「実体を持たぬ存在」です。だから、私と友人が同じ本を一冊ずつ買って来た時、「私の本と貴方の本を交換しよう」というのは有意味ですが、「私の本と貴方の本とで、書かれている内容を交換しよう」というのは無意味です。)

 以上で、「実体を持つ存在」と「実体を持たぬ存在」の定義が完成しました。果たして「心」は、どちらなのでしょうか? この点を明らかにするために、次の2つを比較してみます。
   {5} オリジナルの「自分の心」が原子1~Pの身体に、
      コピーの「自分'の心」が原子1'~P'の身体に存在する状態
   {6} オリジナルの「自分の心」が原子1'~P'の身体に、
      コピーの「自分'の心」が原子1~Pの身体に存在する状態
もし「脳(身体)」と「心」との関係が、コンピュータの「ハードウェア」と「ソフトウェア」の関係に等しいのなら、「心」は「ソフトウェア」すなわち「実体を持たぬ存在」ということになり、{3}と{4}の区別が無意味であったのと同じく、{5}と{6}の区別も無意味なはずです。ところが、私の本心として、{5}と{6}の区別が無意味であるとは、とても思えません。どちらか一方を殺すと言われたら、現在の状態が{5}なのか{6}なのかで、私には生きるか死ぬかの違いが有ります。つまり、{5}と{6}の区別は、{3}と{4}の区別ではなく、{1}と{2}の区別と同種のものであり、これは「心」が「実体を持たぬ存在」ではなく、「実体を持つ存在」として捉えるべきものである事実を示唆しています。
 しかもオリジナルの「自分の心」は、新陳代謝の結果、原子1~Pの身体から原子1'~P'の身体へと移し入れられるように実感します。[質問A]の場合は{5}でしたが、[質問B]の場合は{6}に変わっていました。ゆえに「心の質料」は、身体(脳)を構成している物質である原子1~Pでもなければ原子1'~P'でもなく、非物質的実体「霊魂」ではないのか?と考えることになります。[質問A]と[質問B]とを再掲しておきます。

                [質問A]
   キミ(原子1~P)のコピー(原子1'~P')を作った後、どちらか一方
   を殺さねばならない。どちらを生かし続けて欲しいか? できれば
   オリジナルのキミの方が、コピーの身代わりに死んでくれないか?
                [質問B]
   現在キミの身体は原子1~Pで構成されているが、新陳代謝により
   1年後には、完全に外部の原子1'~P'に入れ代わる。脳も例外で
   はない。実はこれから1年間、キミの老廃物の中から原子1~P
   をすべて拾い集め、1年後にそれらを用いて、キミ(原子1'~P')
   のコピー(原子1~P)を作る。その後、どちらか一方を殺さねばな
   らないのだが、キミ(原子1~P)とキミ(原子1'~P')のどちらを生
   かし続けて欲しいか? 今、キミ自身で決めてくれ。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/27 8:40
SumioBaba 
            霊魂説〔(3)コピー殺人犯のジレンマ〕
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.103】』からの引用です。)


              【問題提起】
 昨日、殺人という大罪を犯した犯人X氏が、今日になって逮捕され、そのコピー人間X'氏を作ったとする。X氏が殺人罪で罰せられるべきであるのは当然だが、果たしてコピー人間であるX'氏の方も、殺人罪で罰せられるべきだろうか?

              【常識的判断】
 まず、常識的な観点から見ると、(コピー人間という思考実験そのものが非常識かもしれませんが?)、X氏は殺人犯だから当然罰せられるべきであるのに対し、X'氏は殺人などしていない(昨日は、存在してすらいない)のだから罰せられるべきではない、と判断されるでしょう。

            【「霊魂説」による判断】
 「霊魂説」の場合も同様です。X氏(昨日)とX氏(今日)とを比較すると、だいぶ身体の物質構造も変わっただろうし、新陳代謝でいくらか身体の物質を外部の物質に入れ換えたかもしれませんが、X氏の「霊魂」は存続しているという意味で、X氏(昨日)とX氏(今日)は、同一人物だと判断されます。だから、X氏(昨日)の犯した罪に対し、X氏(今日)はこれからの人生で、罰せられ、償わねばなりません。
 一方、コピー人間であるX'氏(今日)の方に別の「霊魂」が宿ったと仮定しても、それはX氏の「霊魂」とは別物ですから、X氏(昨日)とX'氏(今日)とは他人であり、X'氏(今日)の方は罰せられるべきではありません。たとえX'氏(今日)が「昨日、自分は人を殺した」と思い込んでいたとしても、それはちょうど強力な催眠術で、犯人ではないのに自分が犯人だと思い込まされているようなものであって、実際に人を殺していない以上、罪ではありません。
 このように、【「霊魂説」による判断】は【常識的判断】と同じ結論になるのが解ります。

            【「唯物論」による判断】
 最後に「唯物論」ですが、これは物質だけが唯一の実在であると考える立場であり、非物質的実体「霊魂」の存在を認めません。当然、「心は脳の機能である」とする「心・脳同一説」を正しいと考えます。新陳代謝によって、現在の自分の身体(もちろん、脳を含む)を構成している「質料」である原子1~Pは、やがて外部の原子1'~P'に入れ代わるにも拘わらず、「自分の心」の同一性は保存されるように感じます。自分の身体(脳)の「形相」の方は、成長や老化によって多少の変化はするものの、1年くらいなら、基本的な個性はほぼ不変と考えて良いでしょう。
 「霊魂」の存在を認めない「唯物論」は、身体(脳)の「質料」と「形相」だけで心の同一性保存を説明せねばなりません。従って、身体(脳)の「質料」が原子1~Pか原子1'~P'かという違いは無関係で、身体(脳)の「形相」さえ同じなら、心の同一性は満たされる、と考えることになります。これは、心を「実体を持つ存在」(質料+形相)ではなく、「実体を持たぬ存在」(形相)として捉える、ということです。「身体(脳)」と「心」の関係を、コンピュータの「ハードウェア」と「ソフトウェア」の関係に似たものとして捉えているという意味で、このような心の解釈を「ソフトウェア説」と名付けます。
 「唯物論」の立場に立つと、「霊魂」の存在を認めないため、必然的に「心・脳同一説」を支持することになり、さらに新陳代謝における主観的自己同一性の存続を説明するため、「ソフトウェア説」を取らざるを得なくなります。この流れはほぼ必然的と言えます。
   「唯物論」→「心・脳同一説」→「ソフトウェア説」
 この「ソフトウェア説」によれば、殺人犯X氏の心とコピー人間X'氏の心とは、「形相」が全く同じというだけで「同一の心」と見なされ、それ以上の区別は無意味となります。つまり、X氏とX'氏とは同じ扱いを受けねばなりません。そうすると、どう考えても奇妙なジレンマに陥ります。
   X'氏(今日)の方も罰せられるべきだ。
と考えるのは変です。実際に殺人などしてもいないのに、「昨日、人を殺した」という記憶を持っているだけで、X'氏(今日)は罰せられるべきなのでしょうか?
   「昨日、人を殺した」、という事実が悪いのではなく、「昨日、人
   を殺した、という記憶を今日持っている」、という事実が罪なのだ。
というのも、ちょっとおかしい気がします。もし、X氏が実在の人物ではなく、推理小説に出て来る架空の人物であり、それを模して人造人間X'氏が作られたとしましょう。この場合、現実には殺人事件など起きていません。それでも人造人間X'氏は、「昨日、人を殺した」という記憶を持っているだけで、殺人罪として罰を受けるべきだとでもいうのでしょうか? さらに、殺人犯本人であるX氏が、強力な催眠術で「昨日、自分は人を殺していない」と思い込んだらどうでしょう? 「昨日、人を殺した」という記憶を無くせば、殺人犯X氏の方も、無罪放免になるのでしょうか? どう考えても変です。
 だからといって逆に、
   X'氏(今日)の方は罰すべきではない。
というのなら、X氏(今日)とX'氏(今日)とを対等に扱う「ソフトウェア説」の場合、X氏(今日)の方も罰すべきではないことになってしまいます。
   X氏(昨日)とX'氏(今日)とが別人であるのと同じく、X氏(昨日)と
   X氏(今日)もまた別人なのだから、X氏(今日)は別人であるX氏
   (昨日)の償いをする義務は無い。
という意味ですが、こんな言い訳が通用するとは思えません。我々の社会では、人を殺した人間は、何日、何ヶ月、何年たっても同一人物と見なされ、時効にならない限り、指名手配で犯人扱いされるし、逮捕されたら何年もかかって、罪を償わなければなりません。殺人という大罪を犯して逮捕されたX氏(原子1~P)が逃亡し、1年後に再逮捕された時、新陳代謝で身体(脳)の物質がすべて入れ代わったX氏(原子1'~P')になっていたとしても、両者は同一人物と見なされ、X氏(原子1'~P')が罰せられるのは常識です。

                【結論】
   ・ X氏(原子1~P)のコピー人間であるX'氏(原子1'~P')を作った
     場合、この2人は別人。
   ・ X氏(原子1~P)が新陳代謝で、1年後、X氏(原子1'~P')に代わ
     った場合、この2人は同一人物。
   という区別が絶対に必要。そして、それをスムーズに説明できるの
   は「霊魂説」であり、「唯物論」(→「心・脳同一説」→「ソフト
   ウェア説」)では的外れな対処になってしまう。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/4/2 6:28
SumioBaba 
            霊魂説〔(4)「ソフトウェア説」とは?〕
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.104】』からの引用です。)


 「ソフトウェア説」とは、心の存在を認めた上で、それをコンピュータのソフトウェアのようなものであり、「形相」が全く同じ2つの心はそれだけで同一と見なし、それ以上の区別自体を無意味とする捉え方です。だからもちろん、オリジナルの「自分」に「自分の心」が存在するのと同様、コピーの「自分'」の方にも全く同じ機能を持った「自分'の心」が発生していると考え、その上で両者の区別を無意味とします。

 自分の身体の「形相」をMbとし(My bodyの意味)、その「質料」を原子1~Pとします。現在の自分の身体は、原子1~Pという「質料」がMbという「形相」を持った状態であると解釈でき、これをMb(原子1~P)と表現します。
 他所から持ってきた原子1'~P'で、そのコピーを作ります。コピーの方はMb(原子1'~P')と表されます。「形相」は全く同じと考えるので、Mb'ではなくMbと書きます。(Mb'と書いてしまうと、Mbと何らかの差異が有ることを積極的に認めたような誤解を与えますので。)
 さて、オリジナルのMb(原子1~P)とコピーのMb(原子1'~P')とは、同一人物でしょうか?、それとも他人でしょうか? 2つの捉え方が有ります。
                 <1>
   どちらもMbという全く同じ「形相」の身体であるから、それだけ
   で「同一人物」とし、それを構成する「質料」が原子1~Pなのか、
   それとも原子1'~P'なのか、という違いは無視する。
                 <2>
   どちらもMbという全く同じ「形相」の身体ではあるが、一方は原子
   1~Pで、他方は原子1'~P'で構成されているという「質料」の違い
   が有るから、やはり2人は「別人」と見なす。
<1>のように、「形相」の同一性だけで同一性を判断する捉え方を、「実体を持たぬ存在(形相)」としての捉え方、と呼びます。<2>のように、「形相」の同一性だけでなく、「質料」の同一性までを満たした時に初めて同一であるとする捉え方を、「実体を持つ存在(質料+形相)」としての捉え方、と呼びます。そして、
             「ソフトウェア説」
   人間の心の同一性を「実体を持たぬ存在(形相)」として判断しよう
   とする捉え方。
です。でもそれは、我々の本心に反しているように感じます。それを示したのが[質問A]とその答でした。
                [質問A]
   キミ(原子1~P)のコピー(原子1'~P')を作った後、どちらか一方
   を殺さねばならない。どちらを生かし続けて欲しいか? できれば
   オリジナルのキミの方が、コピーの身代わりに死んでくれないか?
                 [答]
   絶対に、オリジナルの身体(原子1~P)の方を生かし続けて欲しい!!
   ノー。
これこそ我々の本心が、心は「実体を持たぬ存在(形相)」ではなく、「実体を持つ存在(質料+形相)」の方である、と感じていることをはっきりさせ、「ソフトウェア説」が我々の本心に反していることを暴露するための質問でした。「ソフトウェア説」に則って答えると、
   どちらでも良い。どちらでも同じことだ。
になりますが、こう答える人は極めて少数です。

 次に「自分の心」の「形相」をMmとし(My mindの意味)、その「質料」を取り敢えずXで表すと、これもMm(X)と表現されます。コピーの方にも「自分の心」と全く同じ「形相」(機能・構造)を持った「自分'の心」が発生したと仮定し、その「質料」をX'とすると、これもMm(X')で表現されます。
 問題は、「心の質料」XやX'とは何か?です。「霊魂」の存在を認めない「唯物論」によれば、
   X=原子1~P
   X'=原子1'~P'
のはずですが、そのためには、
   Mm(X)は常にMb(原子1~P)の方に存在する。
   Mm(X')は常にMb(原子1'~P')の方に存在する。
が成立していることが必要です。しかし、実際にはそうではなく、
   Mm(X)は、Mb(原子1~P)からMb(原子1'~P')へと移し入れられる。
です。それを示したのが[質問B]とその答でした。
                [質問B]
   現在キミの身体は原子1~Pで構成されているが、新陳代謝により
   1年後には、完全に外部の原子1'~P'に入れ代わる。脳も例外で
   はない。実はこれから1年間、キミの老廃物の中から原子1~P
   をすべて拾い集め、1年後にそれらを用いて、キミ(原子1'~P')
   のコピー(原子1~P)を作る。その後、どちらか一方を殺さねばな
   らないのだが、キミ(原子1~P)とキミ(原子1'~P')のどちらを生
   かし続けて欲しいか? 今、キミ自身で決めてくれ。
                 [答]
   原子1'~P'に代わってしまった身体の方を生かし続けて欲しい!!
ゆえに、「心の質料」Xは、原子1~Pでもなければ原子1'~P’でもなく、非物質的実体「霊魂」だと結論されます。

 ちなみに、
   Mm(X)、Mm(X')、Mm(X”)、…の中で、あなたの心はどれですか?
という質問に対し、
   自分の心はMmです。
と答えるのが「ソフトウェア説」です。
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