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「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)


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SumioBaba  新米   投稿数: 1
 宗教ではなく、科学で「神」を完全に解明したと主張する内容です。

「神」を完全に解明しました!!(試読用無料版)
http://www.mag2.com/m/0001657128.html

「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)
http://www.mag2.com/m/0001650933.html

 ライプニッツのモナドロジーに則り、実在するのは個々の心(モナド)だけであり、客観的物質世界なるものは実在しないと考えます。さらに量子力学の多世界解釈を取り、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在していると考え、その集合{M}を「神」と定義します。人間の心は要素の1つです。「神」は、あらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」です。個々の心が持てる情報をNビットとし、個々のビットが独立して「0」、「1」、「?」(=「0」+「1」)の3つを取り得るとすると、全部で3^N種類の心になります(N→∞)。

 2つの心MiとMjが、シュレディンガーの猫の「生きた状態を知覚した心」と「死んだ状態を知覚した心」のように矛盾する情報を持つとき、<Mi|Mi>=<Mj|Mj>=1(自分にとって自分の存在確率は1)ですが、<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=0(自分にとって相手の存在確率は0)です。つまり個々の心Mi(i=0、1、2、3、…)は、「「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する」、「「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する」のダブル・トートロジーを満たしています。これを「半存在」と呼びます。

 1人の人間である自分の心M1は、「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、「なぜ自分が住む世界の物理法則は、他の物理法則ではなくこの物理法則なのか?」、…等の謎を感じますが、「神」の視点に立てば、すべての謎が消滅します。「神」は全知全能であり、あらゆる○○○に対し「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を作っています。そして、「「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する」、「「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する」というダブル・トートロジーが成立しているだけです。

 さらに、自分が体験しているのは1人の人間の心M1だけだと考えると、M1に対し「もっとこうありたかったのに…」という不満が生じます。実は自分こそが「神」であり、本当は存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を平等に体験しているのだと悟れば、何一つ不満も無くなります。これが究極の悟りです。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/19 11:10
SumioBaba 
    【補足説明1】

 「SB量子神学」は、科学の立場で見ればあくまで「仮説」に過ぎず、実験的実証はなされていません。しかし、多数存在し得る仮説の中の平凡な1つ、ではありません。「全知全能の「神」が実在する」と仮定した場合、成立し得る唯一の理論が「SB量子神学」です。だから、「全知全能の「神」が実在する」を受け入れるなら、「SB量子神学」の正しさは完全に証明されたと見なせます。逆に、「SB量子神学」を受け入れないのであれば、「全知全能の「神」が実在する」を否定することになります。

 3つの基本命題を考えます。
      【究極原理】
   人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。
      【{M}の実在】
   存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在(半存在)している。
      【神の全知全能性】
   神は全知全能である(全知全能の神が存在する)。
これら3つは互いに必要十分の関係にあり、どれか1つを仮定すれば他の2つは導けます。【究極原理】1つを証明無しに「公理」に定め、他の2つを「定理」として証明する方法が便利です(→http://www.mag2.com/m/0001650933.html の【N0.4】)。そして、これら3つを内容とするのが「SB量子神学」です。

 もし「SB量子神学」を真理であるとすると、どうなるか? 存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在(半存在)していることになり、【{M}の実在】が成立します。「神」は存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を存在(半存在)させていて【神の全知全能性】を満たしています。「神」はあらゆる○○○について、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現しているため、「なぜ○○○なのか?」という謎はすべて、「「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する」、「「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する」というダブル・トートロジーに解消されて消滅し、【究極原理】も成立します。

 もし「SB量子神学」を真理ではないとすると、どうなるか? 存在し得るのに実在していない心Mxがあることになり、【{M}の実在】が否定されます。「神」は存在し得る心Mxを存在させていないため、【神の全知全能性】も否定されます。さらに「なぜMxは、「存在する」と「存在しない」のうち「存在しない」の方だけが選ばれてしまったのか?」というトートロジーに解消できない謎が残ってしまい、「なぜ?と言われても答は無い」、「なぜかそうだからそうなのだ」で諦めるしか無くなり、【究極原理】も否定されてしまいます。

 「SB量子神学」が真理である場合と、真理ではない場合とを比べると、明らかに真理である場合の方が、美しく合理的であると思われます。ライプニッツの言う「充足理由律」(どんな謎にも必ず答が有る)という完全性を要求するなら、実験的実証を待つまでもなく、「SB量子神学」は真理だと確信できることになります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/19 12:04
SumioBaba 
    【補足説明2】

 「SB量子神学」では、「実在論」=「物質世界の存否や状態は、心による知覚・認識とは無関係に客観的に確定している」の立場を取らず、「観念論」=「物質世界の存否や状態は、心による知覚・認識無しには何も確定していない」の立場を取ります。その理由を説明します。

 仮に「実在論」の立場を取り、自分の心M1が住む世界W1を「客観的物質世界」だと仮定しましょう。この世界W1は、心によって知覚・認識されなくても、誰に対しても「存在する」に確定しているという訳です。すると、少なくともこの世界W1について、「神」は「存在する」の方だけを実現し、「存在しない」の方は放棄してしまったことになり、全知全能でなくなってしまいます。

 「神」は全知全能であるために、どんな被造物に対しても「存在する」と「存在しない」の両方を実現する必要が有ります。「主観的心」であれば、この難点を超越できます。自分の心は自分の心にとっては「存在する」に確定していますが、他人の心にとって自分の心は「存在しない」であり得るからです。「主観的心」は視点の取り方によって、「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」の3つを実現できます。だから、【究極原理】【神の全知全能性】【{M}の実在】の3つを成立させるためには、「実在論」ではなく「観念論」を選ぶ必要が有るのです。

 「実在論」の場合、「無」と「有」とは互いに相手を否定し合う「背反的」関係にあるため、「いかにして「無」から「有」は発生し得るか?」という疑問に答えるのは極めて困難でした。ところが「観念論」の場合、「無」と「有」とがスムーズにつながります。
 「無」とは意識(情報)が無いことであり、「有」とは意識(情報)が有ることです。そして「情報」とは、「全体」から「部分」を選び出す時に生じ、「全体」そのものの中には有りません。だからこそ、特定の意識(情報)を持った心M1、M2、M3、…すべてを同じ重みで重ね合わせると、意識(情報)は打ち消し合って消滅し、完全な無意識状態(無情報状態)M0=「???…」になります。

 例えると、虹の7色を全部重ねると無色になります。個々の7色は色として「有」なのに、全部重ねると「無」になります。逆に、色としては「無」である白色光を7つに分裂させるだけで、色として「有」である紅・橙・黄・緑・青・藍・紫が生じます。「無」から「有」を発生させるにはどうすれば良いか?…「?」→「0」+「1」と分裂させれば良い(波動関数の収縮)。「有」を消滅させ「無」にするにはどうすれば良いか?…「0」+「1」→「?」と重ね合わせれば良い。

 「観念論」の場合、「無」と「有」との関係は「背反的」関係ではなくなり、「全体」と「部分」の関係に変わったのです。そしてM0の「無」とは、「物質世界が無い」という意味ではなく、「物質世界が有るのか無いのか、有るとしたらどういう物理状態なのか、についての情報が何一つ無く、あらゆる可能性が重ね合わせになったままの状態」を意味します。般若心経で言うと、M0が「空」、M1、M2、M3、…が「色」です。
   M0=M1+M2+M3+… 〔色即是空・空即是色〕
これは、「空」=「色1」+「色2」+「色3」+…を意味しており、「無」=「有1」+「有2」+「有3」+…と書くこともできます。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/19 12:52
SumioBaba 
    【補足説明3】

 「神」の定義はいろいろできそうですが、「全知全能」であることを要求すると、定義は極めて限定されます。いや、普通に考えると、限定され過ぎて「解無し」になります。「神」を「○○○である」と定義すると、「○○○でない」の方を放棄してしまい、全知全能ではなくなってしまうからです。全知全能であるためには、「○○○である」かつ「○○○でない」を満たさねばなりませんが、そうすると矛盾に陥ります。真理体系に1つでも矛盾が生じると、あらゆる命題の肯定も否定も証明されてしまい、「神」とは何かを議論する事自体が全く無意味になってしまいます。

 この難点を超越できる唯一の方法が、量子力学の多世界解釈です。「神」は全知全能であり、あらゆる○○○について、「○○○である」と認識する心、「○○○でない」と認識する心、の両方を作り出していると考えます。ただし両者は線形の重ね合わせであって、互いに相互作用はしないため、どちらも矛盾の無い状態として存在できます。
 要するに全知全能の「神」は、特定の1つの状態として定義しようとすると「解無し」です。それゆえ、存在し得るすべての状態の集合として定義するしか、方法は無いのが解ります。

 「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を、全知全能の「神」は体験しているか?」と尋ねてみます。もちろんYESでしょう。NOだったら全知全能とは言えません。つまり「神」が全知全能であるために、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は必要条件です。では、これ以外にも条件が必要でしょうか? それは不要です。仮にこれ以外に「○○○であること」が必要だと仮定してみても、結局それは「○○○であると認識している心の状態を体験すること」になるからです。
 従って、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要十分条件となります。そして全知全能の「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」になります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/19 13:18
SumioBaba 
    【補足説明4】

 こういう反論が予想されます。
   「神」が「全知全能である」というのなら、「神」は「全知全能
   である」を選ぶことにより「全知全能でない」の方を放棄してし
   まい、それゆえに「全知全能でない」になってしまうではないか?
「全知全能である」は「{M}全体である」を意味します。ではその否定である「全知全能でない」すなわち「{M}全体でない」は何を意味するでしょうか?

 {M}は存在し得るすべての心の状態M0、M1、M2、M3、…を網羅したものです。従って、もし「全知全能でない」を{M}の外側に求めると、「全知全能でない」はφ(空集合)になり、「全知全能でない」を放棄したと言っても、何も放棄していないことになります。
 φ(空集合)ではない「全知全能でない」を求めようとするなら、{M}の外側ではなく内側に、{M}の部分集合{Ma}や個々の要素M0、M1、M2、M3、…であると定めるしか、方法が有りません。ところがこの場合には、「全知全能である」と「全知全能でない」とは背反的関係ではなくなり、「全知全能である」⊃「全知全能でない」という包含関係になります。だから「神」が実現している「全知全能である」は、「全知全能でない」を放棄しているのではなく含んでいることになるため、先程の反論は超越できているのが解ります。

 「神は、自分が持てない重い岩を、造ることができるか?」というパラドックスも有名です。YESと答えると「神」はその岩を持ち上げられず、全知全能でなくなってしまいます。NOと答えると「神」はその岩を造れず、全知全能でなくなってしまいます。どちらと答えても、「神」は全知全能でなくなる、という訳です。
 こういう場合も、この世界ではYES、あの世界ではNO、と考えます。片方だけでは「神」は全知全能とは言えませんが、両方を併せることで「神」は全知全能だと見なせば良いのです。
 「いや、全知全能の神なら、1つの世界(1つの心)の中で、YESとNOとを同時に作り出せるはずだ!!」という反論も予想されます。もしそれができたとすると、その世界(心)の中には矛盾が発生しています。矛盾が発生すると、あらゆる命題の肯定も否定も証明されてしまい、自分はM0、M1、M2、M3、…のどれでもあり、どれでもないことになります。実はそれこそが「空」M0なのです。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/19 13:56
SumioBaba 
    【補足説明5】

 「神」は全知全能なので、どのMi(i=0、1、2、3、…)からどのMj(j=0、1、2、3、…)へも、Mi→Mjという時間の流れを実現せねばなりません。一見すると、「神」はこれを実現できていないように錯覚します。なぜなら自分は、
   …→自分(t2)→自分(t3)→自分(t4)→…    …(1)
という特定の時間の流れだけが実現しているかのように実感するからです。
 しかし、それは錯覚です。仮に、「神」による真の体験順序を、
   …→友人(t5)→自分(t3)→彼女(t6)→…    …(2)
に変えたとしても、自分(t3)はこの違いに気付けないのです。自分(t3)は、「一瞬前は自分(t2)だった」という記憶を持ち、「一瞬後は自分(t4)だろう」と推測している心です。だから(2)の自分(t3)は、自分を(1)の自分(t3)だと思い込み、(2)に変えられた事に気付けません。

 ということは、そもそも真の体験順序は(1)か?、(2)か?、と問う事自体が無意味です。「時間の流れ」という実感は、自分(t3)の心の中に観念として存在するだけで、実在しない、というのが正しい理解です。実在するのは個々の心Mi(i=0、1、2、3、…)による「MiはMiである」という自己認識だけであり、これらには発生も消滅も無く、これら相互間には時間的前後関係も無ければ空間的位置関係も有りません。これを【神の定常状態】(永遠の今)と呼びます。

 「時間の流れ」が実在しないので、「物理法則」も実在せず、ただ、物理法則が成立しているかのような観念が心の中に存在するだけです。
 ガラスのコップを落として割ってしまい、「神よ、元に戻して下さい」と念じたとき、コップが元に戻る現象を《神の奇跡》と呼んでみます。念じている心をMa、《神の奇跡》が起きなかったのを体験する心をMx、《神の奇跡》が起きたのを体験する心をMyとしましょう。Maは、Ma→Mxと時間発展する確率をほぼ1であり、Ma→Myと時間発展する確率をほぼ0である、と認識するでしょう。しかし、そもそも時間の流れは実在しないので、確率の大小を論じるのは無意味です。実在するのは「MaはMaである」、「MxはMxである」、「MyはMyである」という3つの自己認識だけです。

 「自由意志」もまた、個々の心の中に「観念」として存在するだけであり、「実在」するものではありません。現在の自分の心Maが、選択肢Xを選んでMxになるか、選択肢Yを選んでMyになるか、悩んでいるとします。もし、前者の場合の「神」{M}xと、後者の場合の「神」{M}yとが異なるとしたら、自分が選択肢Xを選んだ場合、「神」は{M}xであることを強制され{M}yにはなれなくなり、全知全能ではなくなってしまいます。逆に「神」が全知全能であれば、{M}x={M}y(={M})です。そして、「MaはMaである」、「MxはMxである」、「MyはMyである」という3つの自己認識は、初めから{M}の要素として存在しています。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/23 1:11
SumioBaba 
    【補足説明6】

 そもそも「謎」とは何でしょうか? 「○○○である」自体が「5は5である」のようなトートロジー(同語反復的恒真命題)であれば、「○○○である」は起こり得ても「○○○でない」の方は起こり得ません。こういう場合、自分の住む世界で「○○○である」が起きていても、何も謎ではありません。
 問題は、「○○○である」も「○○○でない」もトートロジーでない場合です。どちらも起こる可能性が有ります。そんな中、なぜか自分が住む世界で「○○○である」が起きている時、「なぜ○○○なのか?」という謎が生じます。この謎は正確に書くとこうです。《謎》=「「○○○である」はトートロジーではないので、「○○○である」と「○○○でない」のどちらも起こり得て良いはずなのに、なぜ「○○○である」の方だけが選ばれて起きたのか?」。

 ここで、なぜか「○○○である」の方だけが選ばれて起きている、と認めたとしましょう。すると、「なぜ○○○なのか?」という謎は、決して完全解明できなくなってしまいます。「なぜ○○○なのか?」に「それはAだからだ」と答えても、「なぜAなのか?」という謎が残ります。「それはBだからだ」と答えても「なぜBなのか?」という謎が残ります。「それはCだからだ」と答えても「なぜCなのか?」という謎が残ります。…。どこまでも無限後退してしまいます。どこかで説明は打ち切られ、「なぜ?と問うても答は無い」「なぜかそうだからそうなのだ」で諦めるしか無くなります。

 では、「なぜ○○○なのか?」という謎を完全解明するためには、どうすれば良いでしょうか? 「○○○である」と「○○○でない」の両方が起きている、と考えれば良いのです。この世界で自分は「○○○である」を体験していますが、別の世界で自分は「○○○でない」の方を体験していると考えます。これが量子力学の多世界解釈です。この世界とあの世界とは線形の重ね合わせであり、両者の間に相互作用は無いので、お互いに相手の存在に気付けないだけなのです。こう考えることで、《謎》は事実誤認だったこととなり、消滅します。

 どちらか一方を選ばなければ、自分は「○○○である」と「○○○でない」の両方を体験していることになります。どちらか一方だけを体験するためには、そちらの視点だけを選ぶ必要が有ります。つまりこうです。
   「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する。
   「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する。
これがダブル・トートロジーであり、謎が消滅しました。どちらの場合も、「そちらを選んだから、そちらが選ばれた」という当たり前の話になったのです。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/23 2:19
SumioBaba 
    【補足説明7】

 【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。」、【{M}の実在】=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在(半存在)している。」、【神の全知全能性】=「神は全知全能である(全知全能の神が存在する)。」の3つが同値であることを説明します。

      (1)【究極原理】→【{M}の実在】
 【{M}の実在】の否定を仮定し、存在し得るのに実在(半存在)していない心Mxが有るとすると、「なぜMxは、存在し得るのに実在(半存在)していないのか?」というトートロジーに解消できない謎が残り、【究極原理】も否定されてしまいます。すなわち、【{M}の実在】の否定→【究極原理】の否定。対偶を取って、【究極原理】→【{M}の実在】。

      (2)【{M}の実在】→【究極原理】
 【{M}の実在】を仮定すると、トートロジーでないどんな○○○についても、「○○○である」と認識する心と、「○○○でない」と認識する心の両方が、実在(半存在)することになります。そして、「なぜ○○○なのか?」という謎は、「「○○○である」と認識する視点に立つと「○○○である」と認識する」、「「○○○でない」と認識する視点に立つと「○○○でない」と認識する」、というダブル・トートロジーに解消されて消滅し、【究極原理】が成立します。つまり、【{M}の実在】→【究極原理】。

      (3)【{M}の実在】→【神の全知全能性】
 【{M}の実在】を仮定します。存在し得るすべての心が実在(半存在)していることになり、「神」はあらゆる○○○について、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現していることになり、【神の全知全能性】が成立します。つまり、【{M}の実在】→【神の全知全能性】。

      (4)【神の全知全能性】→【{M}の実在】
 【{M}の実在】の否定を仮定すると、存在し得るのに実在(半存在)していない心Mxがあることになり、「神」は存在し得る心Mxを作っていないため、【神の全知全能性】も否定されます。すなわち、【{M}の実在】の否定→【神の全知全能性】の否定。対偶を取って、【神の全知全能性】→【{M}の実在】。

      (5)【究極原理】→【神の全知全能性】
 (1)と(3)より明らか。

      (6)【神の全知全能性】→【究極原理】
 (4)と(2)より明らか。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/23 2:44
SumioBaba 
    【補足説明8】

 【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。」を1つだけ証明なしに「公理」に定めれば、【{M}の実在】=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在(半存在)している。」と【神の全知全能性】=「神は全知全能である(全知全能の神が存在する)。」は「定理」として証明できました。そして、これら3つを内容とするのが「SB量子神学」でした。
 【究極原理】1つだけは、証明なしに「公理」として定めるとは言うものの、「謎」という言葉を以下のように定義すれば、【究極原理】自体がトートロジーであり、証明不要の絶対的真理だと見なせます。

 「謎」=「〔自分の心M1が知覚・認識する世界W1において、トートロジーではない「○○○である」という事実がなぜか成立している場合、M1はW1だけしか知覚・認識できないため、「○○○である」と「○○○でない」の両方が有り得て良いはずなのに、なぜ「○○○である」の方だけが選ばれて実現しているのだろう?と不思議に感じる事(それが「謎」)であるが、実は自分の心M1が知覚・認識できない他の世界W2、W3、W4、…も存在していて、それらの中では「○○○でない」の方も実現していると考え、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、そして、「「○○○である」と認識する視点」と「「○○○でない」と認識する視点」の両方が必ず存在しているのだと理解することにより、〕必ずトートロジーに解消できる命題」。

〔 〕の部分を省略すると、「謎」=「必ずトートロジーに解消できる命題」となります。そしてこれを【究極原理】に代入すると、【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての「必ずトートロジーに解消できる命題」は、トートロジーに解消できる」となります。つまり、【究極原理】自体がトートロジーだと見なせます。
 「謎」をこう解釈するだけで、【究極原理】【{M}の実在】【神の全知全能性】そして「SB量子神学」は、殆どトートロジーだと見なせるくらい疑う余地の無い、絶対的真理であると見なせる訳です。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/24 1:16
SumioBaba 
    【補足説明9】

 人間はいろいろな謎の存在を感じていますが、突き詰めて考えると、次の2つの謎に帰着します。
      《状態選択の謎》
   なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなく、このM1なのか?
      《存在選択の謎》
   なぜ自分の心M1は「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?
これら以外にも、自分が住む世界W1についていろいろな謎が有るように感じますが、世界W1を知覚・認識しているのは自分の心M1です。「実在論」ではなく「観念論」の立場を取ると、W1についての謎はすべてM1についての謎に還元されます。従って《存在選択の謎》以外の謎は、M1についての謎もW1についての謎も、みな《状態選択の謎》に含められることになります。

 自分の心M1が本当に認識できるのは、M1の存在と状態だけであり、他の心M0、M2、M3、…については、存在も状態も認識できません。それでついつい、自分が体験しているのはM1だけだ、と思い込んでしまいます。そうすると、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の中からM1だけが特別に選ばれているように感じてしまい、《状態選択の謎》が生じます。さらに自分の心M1の視点に立つと、M1は、「存在する」と「存在しない」のうち「存在する」の方だけが選ばれているように感じてしまい、《存在選択の謎》が生じます。しかし、実はどちらも錯覚なのです。

 本当の自分は全知全能の「神」なのであり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を平等に体験している、と考えます。「神」の視点に立てば、心M0、M1、M2、M3、…はどれも平等な存在であり、M1だけが特別に選ばれている訳ではなく、《状態選択の謎》は消滅します。
 さらに、個々の心M0、M1、M2、M3、…は「半存在」であり、「「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する」、「「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する」、のダブル・トートロジーを満たしています。例えばM1とM2とが矛盾する情報を持つとすると、「神」がM1の視点に立っている時は「M1は存在する」を体験していますが、M2の視点に立っている時は「M1は存在しない」を体験しています。つまりM1は、「存在する」と「存在しない」の両方が実現されており、「存在する」だけが選ばれている訳ではありません。自分こそが「神」なのだと悟れば、《存在選択の謎》も消滅します。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/24 4:04
SumioBaba 
    【補足説明10】

「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)
http://www.mag2.com/m/0001650933.html
の【No.1】に書いている《簡略説明》8段落〔1〕~〔8〕を書いておきます。
 【No.2】で《詳細説明》37段落〔1〕〔1・1〕〔1・1・1〕~〔7・4〕〔7・5〕〔8〕を書き、【No.3】~【No.12】においてそれらを1つ1つ詳しく解説しており、それが「SB量子神学」の最も詳しい説明になります。量子力学の観測問題、多世界解釈、ウィグナーの友人、波動関数収縮の原因は何か?、などの説明をし、「神」と「人間の心」との関係を数式で記述します。興味をお持ちの方は検索してみて下さい。

               《簡略説明》

      〔1〕【究極原理】からのスタート
 仮に【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる」が正しいとしたら何が言えるか?、との考察から全知全能の「神」の存在を証明し、多世界解釈の枠組みの中で、「神」と人間の心との関係を数式を用いて記述する。

      〔2〕全知全能の「神」の遊戯
 「神」は全知全能で、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を「半存在」させており、その集合{M}を「神」と定義すれば、「神」はあらゆる心を体験しているという意味で全知全能であり、人間の心は「神」の分身であって、すべては「神」の遊戯になる。

      〔3〕直交規格化条件
 個々の心Mi(i=0、1、2、3、…)は「半存在」であり、MiとMjとが矛盾する情報を持つ場合、<Mi|Mi>=<Mj|Mj>=1(自分にとって自分の存在確率は1)であるが、<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=0(自分にとって相手の存在確率は0)である(直交規格化条件)。

      〔4〕「空」がM0、「色」がM1、M2、M3、…
 あらゆる心Mi(i=0、1、2、3、…)を同じ重みで重ね合わせると、すべての意識(情報)が打ち消し合い消滅したM0=「???…」になる。他のM1、M2、M3、…は特定の意識(情報)を持つ心である。般若心経で言うと、M0が「空」、M1、M2、M3、…が「色」である。

      〔5〕量子観念論仮説
 観測による波動関数の収縮は、個人の心による情報の認識によって起こり、人それぞれ異なるため、多世界解釈を取ると客観的物質世界なるものは実在できず、様々な情報を持った心M0、M1、M2、M3、…が実在するだけとなる(観念論、モナドロジー)。

      〔6〕「時間の流れ」「自己同一性」は錯覚
 自分(t2)は、自分の意識内容で、自分(t1)→自分(t2)→自分(t3)という時間の流れと自己同一性を感じているが、友人(t5)→自分(t2)→彼女(t4)と置き換えられても、意識内容が同じなら前後の違いに気付けず、「時間の流れ」も「自己同一性」も錯覚であり実在しない。

      〔7〕【神の定常状態】
 実在するのは、「MiはMiである」(i=0、1、2、3、…)という自己認識すなわち【神の定常状態】(永遠の今)だけであり、M0、M1、M2、M3、…には発生も消滅も無く、これら相互間には時間的前後関係も空間的位置関係も無い。

      〔8〕「神」のすべてがトートロジー
 真の私は1人の人間ではなく、他ならぬ「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の視点に平等に立っている。しかもこれらは、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、というダブル・トートロジーであって、謎は何も無い。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/10/31 10:44
SumioBaba 
    【補足説明11】大乗仏教の「真如」

          <1>
 大乗仏教で用いられる「真如」(しんにょ)という言葉がものすごく神秘的です。「SB量子神学」で言う全知全能の「神」にそっくりです。ただし、それが何なのか、言葉では説明できないものとされています。「真如」という名前さえも仮の名前に過ぎず、本当は名前を付けることさえできないものだとされています。なぜなら「真如」という名前を付けてしまうと、「真如である」と「真如でない」の2つに分別が生じ、「真如」とは「真如である」の方であり「真如でない」の方ではない、と限定されてしまうからです。
          <2>
 本当の「真如」は何一つ限定されないものなので、「真如である」も「真如でない」も、両方とも「真如」に含まれねばなりません。「SB量子神学」で言う「神」も、本当の意味で「全知全能である」を満たすために、「全知全能でない」の方を放棄する訳にはいかず、「全知全能である」と「全知全能でない」の両方を実現して初めて、本当の意味での「全知全能である」に成り得るのでした。そしてそれこそ、全知全能の「神」が全知全能の「神」だけに留まらず、全知全能でない人間の心をも「神」自ら体験している理由です。「真如」にも全く同じ説明が可能です。
          <3>
 世界の初めをXとしましょう。もしこのXが、すでに「存在する」か「存在しない」か一方だけに確定していると仮定したり、Xが特定の物理法則や特定の心理法則や無矛盾な論理法則に縛られていると仮定すると、「なぜ?」という謎が発生してしまいます。「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ。」と決め付けてしまうと、この謎は永久に隠蔽されてしまいます。科学は、特定の法則によって世界を説明しようとしますが、その代償として、「なぜその法則に縛られるのか?」、「なぜ他の法則ではなくこの法則なのか?」という謎が隠蔽されてしまうし、それをも追究しようとすると無限後退に陥ってしまいます。
          <4>
 何一つ謎を隠蔽しないためには、どうすれば良いでしょう? 世界の初めXは「存在する」のか「存在しない」のか、特定の法則に「縛られている」のか「縛られていない」のか、何も限定しないところからスタートする必要が有ります。「SB量子神学」の「神」も、大乗仏教の「真如」も、これを満たしています。そして、存在し得るのは「空」M0と「色」M1、M2、M3、…だけであることを、何も法則を使わずに導きます。「空」M0も「色」M1、M2、M3、…も「半存在」であり、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけです。だから、「なぜ存在するのか?」、「なぜ存在しないのか?」という謎自体が有りません。
          <5>
 具体的な説明はこうです。「真如」の本質は「何ものにも縛られない」です。この「何ものにも縛られない」をそのままに実現しているのが「空」M0です。無矛盾な論理法則にさえ縛られないため、矛盾を起こしているでもいないでもあり、自分の状態が何なのか全く定まらず、「空」M0は完全な無意識状態です。ただし、これだけだと「真如」は、「何ものにも縛られない」という法則にだけは、例外的に縛られていることになってしまい、「真如」の完全性に傷が付きます。そうならないために「真如」は、「「何ものにも縛られない」にも縛られない」つまり「何かに縛られる」をも実現する必要が有ります。それが「色」M1、M2、M3、…なのです。
          <6>
 では「「「何ものにも縛られない」にも縛られない」にも縛られない」はどうでしょう? これは「何ものにも縛られない」に戻るようです。だから存在し得るのは、「空」M0と「色」M1、M2、M3、…の2種類になります。「SB量子神学」も仏教も、観念論(唯識)の立場を取るため、「客観的物質世界」なるものは認めません。だから、「空」M0と「色」M1、M2、M3、…の説明だけできればそれで完結です。「空」M0が完全無意識状態であるのに対し、特定の意識を持った人間の心は、もちろん「色」M1、M2、M3、…のどれかに含まれます。
          <7>
 1人の人間である自分は、「過去」→「現在」→「未来」という時間の流れを実感します。しかし、現在の自分が本当に知り得るのは、現在の自分だけであり、過去や未来は推測しかできません。本当は現在だけが存在し、過去も未来も無いとする「独今論」も成立します。「客観的物質世界」の実在を盲信している人が多いと思われますが、宇宙は、「現在」だけが実在し、「過去」や「未来」は想像でしかないという、奇妙な在り方をしています。「神・真如」の視点に立てば、時間の流れは意味が有りません。すべての「色」M1、M2、M3、…を線形に重ね合わせると、情報が打ち消し合って消滅した完全無意識状態「空」M0になり、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕が成立します。
          <8>
 M0=M1+M2+M3+…において、右辺は線形の重ね合わせであり、M1、M2、M3、…と解釈しても良いし、(M1+M2)、(M3+M4)、(M5+M6)、…と解釈しても良いし、(M1+M2+M3)、(M4+M5+M6)、…と解釈しても良いし、…、(M1+M2+M3+…)が1つだけと解釈すればそのままM0になります。つまり左辺のM0は、分裂するまでもなくそのままで、右辺のM1、M2、M3、…のどれでもあるのです。M0は、全体としてみれば無意識状態M0ですが、その中にすべての有意識状態M1、M2、M3、…を部分として含んでいるという意味です。「神・真如」は、完全無意識状態「空」M0であると同時に、すべての「色」M1、M2、M3、…を体験している、と解釈できます。だからこそ「色」M1、M2、M3、…は、「存在する」でも「存在しない」でもある「半存在」なのであり、これが〔色即是空・空即是色〕です。
          <9>
 「色」M1、M2、M3、…は、言わば「空」M0が自力で矛盾を生じさせ、「M0はM0である」という同一律を否定し、「M0はM0ではない(M1、M2、M3、…のどれかである)」を実現することで、M1、M2、M3、…に化けたものです。「色」M1、M2、M3、…は、特定の意識状態を持つ心としての自己同一性を成立させるため、少なくとも無矛盾な論理法則の成立を要求します。さらに、物理法則や心理法則が曖昧だと実感する心は、長時間存続する保証が無いため、数秒か数分で消滅する「夢」のような貧弱な心になってしまうでしょう。自分の心が平均寿命80年も存続すると実感する理由は、自分が住む世界に多数の物質粒子が存在し、厳密な物理法則が成立して宇宙は140億年も存続し、物質である脳に心が随伴するという二元論的構造を持っている、と認識している心だからです。
          <10>
 こう問うてみます。「なぜ現在自分が住む世界Wは、特定の物理法則に従うWaなのか? 全く物理法則に従わないWxでも良かったのに?」。そして現在自分が住む世界Wは、本当はWaとWxとを特定の重みAとXを付けて重ね合わせたW=A・Wa+X・Wxだとしてみます〔|A|^2+|X|^2=1〕。WaとWxとは、物理状態は全く同じですが、特定の物理法則に従うか従わないか、という決定的な違いが有ります。Waの方は、特定の物理法則に従って、一瞬後の状態は確実にWbになるとします。一方、Wxの方は全く物理法則に従わず、一瞬後はあらゆる状態Wp、Wq、Wr、…および-Wp、-Wq、-Wr、…に等確率でなるとすると、一瞬後の状態は(Wp-Wp)+(Wq-Wq)+(Wr-Wr)+ …=0となって消滅します。X=0と同じことになるので、A=1に変化することで、全体の確率が1になるよう再規格化されます。つまり、現在自分が住む世界Wは、100%の確率でWaであり、Wxである確率は0%、ゆえに、W=Waとなります。物理法則に従わない世界は存在できないのです。
          <11>
 全知全能の「神・真如」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」になります。これらの中には、あらゆる○○○について、「○○○である」と認識している心、「○○○でない」と認識している心、の両方が含まれます。1人の人間としての現在の自分の心M1は、片方だけしか認識できないため、「なぜ片方だけが選ばれて実現したのか?」という謎を感じてしまいます。しかし、真の自分が「神」であると悟れば、すべての謎が消滅します。「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけです。すべての心M0、M1、M2、M3、…は、「神・真如」が見ている夢のようなもの、という世界観になります。


 以上、「SB量子神学」で言う全知全能の「神」は、大乗仏教でいう「真如」と完全に一致する同義語のようです。仏教が言葉で説明できない究極の真理だとしてきた「真如」を、言葉で説明し、数式で記述して見せたのが「SB量子神学」の「神」だと言えます。〔より詳しい説明は、メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!』(まぐまぐ!)で検索して下さい。〕
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/11 23:44
SumioBaba 
    【補足説明12】大乗仏教の「真如」【1】~【3】

  【1】「真如」は自然科学で解明できない

 『大乗仏教概論』(鈴木大拙著、佐々木閑訳、岩波書店、2004)から、「真如」について引用してみます。「SB量子神学」でいう「神」とそっくりな、大変面白い概念です。

 -----勝義諦あるいは円成実性といわれる超越的真理は、存在論的視点からは真如と呼ばれる。それは「存在のあるがままたること」という意味である。仏教は思考と存在を分けて考えることがないので、客観世界における真如が、そのまま主観世界での超越的真理となるし、逆に客観世界における超越的真理が主観世界での真如ともなる。したがって真如は仏教における神性であり、一切の起こりうる矛盾を統合し世界の事象の方向性を自ら指し示す最高原理に到達するためのあらゆる精神的努力が成就したことを示す指標となるものである。つまりそれは存在の究極的公理なのである。先に述べた円成実性と同様、それは論理的知識の領域にも感覚的経験の領域にも属さないので、自然科学が一般法則を見いだすのに用いる普通の知的探求法によっては理解することができない。そしてそれは仏教徒に言わせれば、いわゆる宗教的直観と呼ばれるものを発揮する能力のある者によってしか把握され得ないものである。-----

 早くも、「(真如は)自然科学が一般法則を見いだすのに用いる普通の知的探求法によっては理解することができない」という主張が出て来ました。この後さらに、「(真如は)言葉では正確に説明さえできない」という主張が出て来ます。

  【2】「真如」は言葉で説明できない

 -----馬鳴は『大乗起信論』の中で、この第一原理の限定不可能性を語っている。…。したがって馬鳴は、このような存在の、究極的性質を明確に語ることはどのようなかたちであれ避けたかったのであるが、我々凡人が自分の考えを表明し、それを他の人たちに伝えるには言語以外に方法がないため、彼は最良の方法として、「真如」すなわち「存在のあるがままたること」、もっと簡単に言えば「そのようであること」という語で表現することにしたのである。このように絶対的視点から名付けられた真如というものは、存在のカテゴリーにも非存在のカテゴリーにも属さない。そして狭い相対性の範囲に留まっている人は、その本当の姿を把握することはできないのだと言わざるを得ない。-----

 「真如」の本質は「何ものにも限定されない」あるいは「何ものにも縛られない」です。もし「真如とは○○○である」と説明してしまうと、「真如」は「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方だけに限定されてしまいますが、それがダメなのです。「真如」は「何ものにも限定されない」であるため、「○○○である」も「○○○でない」も、「真如」に含まれねばなりません。だから、「真如」を言葉で表現した途端に「真如」ではなくなり、それゆえ「真如」は言葉で表せないものとされます。
 「SB量子神学」でいう「神」も同じ困難にぶつかりました。「神」が本当の意味で「全知全能である」ためには、「全知全能でない」を放棄する訳にはいかず、「全知全能である」と「全知全能でない」の両方を満たした時に初めて、本当の意味で「全知全能である」になれるのでした。「SB量子神学」でいう「神」は、この「真如」と殆ど同義語だと考えて下さい。自然科学で解明不可能とされ、言葉でも正確には表現できないというこの「真如」を、何とか自然科学で解明しようとするのが「SB量子神学」です。

  【3】「真如」の定義は矛盾だらけ

 -----〔限定不可能性〕絶対的真如は、本質的にすべての限定を拒む。「それはなになにである」という言い方さえできない。なぜなら、「それはなになにである」という場合には、必ず「それはなになにではない」という対立項が想定されているからである。存在と非存在は、主観と客観、心と物質、これとあれ、一と多といった概念と同じく、相対的な言葉であり、対立項があって初めて考えることのできるものなのである。したがって我々が自分たちの不完全な表現機能によってそれを表そうとするなら、「それはそうではない」としか言いようがないということになるであろう。それゆえ大乗仏教徒は普通、絶対的真如を空性として表すのである。しかし空性という、この最も重要な語を、より完全に解釈するなら、馬鳴が言うように「真如とは存在するものでも非存在なるものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在しないのでもないというのでもない。それは一なるものでなく、多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでないというのでもない」という言い方をすべきであろう。-----

 量子力学の多世界解釈を利用しないと、あからさまに矛盾が生じる訳です。確かに「真如」は、「○○○である」と「○○○でない」の両方を満たしたものなので、1つの世界の中で記述しようとすると、すぐに矛盾が生じます。多世界解釈を採れば、この矛盾は解消できるはずなのです。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/14 19:40
SumioBaba 
    【補足説明13】大乗仏教の「真如」【4】~【6】

  【4】神は理解された時、もはや神ではない?

 -----真如を絶対否定として捉えるこの視点は、大乗の中の禅宗文献に多く見いだされる。たとえば禅宗の祖である菩提達磨は、梁の武帝から聖なる教えの第一原理を尋ねられた時、哲学者のように長くてくどくどしい説明などはせず、簡潔に「まったくのからっぽで、聖なるものなどなにもない」と応えている。武帝は困惑し、この聖なる指導者の言葉をどう理解したらよいのか分からなかった。彼は当然、このようなぶっきらぼうな答えなど予想していなかったので非常にがっかりし、そしてさらに次のような質問を試みる。「それなら、私の前に立っているのは一体何者ですか」と。…。達磨はただ「知らん」と応えただけであった。この「知らん」という言葉は不可知論的な意味で理解してはならない。それは「神は理解された時、もはや神ではない」というのと同じ意味なのである。…。大乗仏教徒は往々にして、「絶対的真如はからっぽでありかつ、からっぽでない。空でありかつ、不空である。存在しておりかつ、存在していない。有にしてかつ、非有。一にしてかつ多。これでありかつ、あれである」といったパラドキシカルな表現を用いたのである。-----

 このへんから仏教は、哲学から宗教へと変質したように感じます。もともと仏教は、宗教というよりも哲学だったように思います。ところが、「真如」の謎を言葉で表現することを放棄し、修行を通して実感する方を重視したことにより、宗教的色彩が濃くなったのでないでしょうか。

  【5】維摩の一黙、響き雷の如し

 -----〔雷のごとき沈黙〕あるとき文殊が多くの菩薩を連れて維摩菩薩を訪ねてきたが、その時維摩は、その菩薩たちに、「どうやったら不二の法門に入ることができるのか、その点に関しての見解を語っていただきたい」と質問する。それに対してある者は「生と死は二つのものであるが、法そのものは生まれもしないし死にもしない。このことを理解した者は不二の法門に入ったと言われるのである」と答えた。…。他にもたくさんの答えが、リーダーである文殊を除いたすべての菩薩たちから提示された。そこで維摩は、その文殊に対して、自分の考えを述べるよう求め、文殊は次のように答える。「私の考えるところを言葉にするなら次のようになるでしょう。全く言葉がなく、言説がなく、いかなる指標も示さないものは認識することができず、一切の質問と応答を超えてしまっている。これを知ることが不二の法門に入ることと言われるのである」。最後に文殊が、維摩に向かって、不二に関する彼自身の意見を語るよう求める。しかし維摩は完全な沈黙を守り、一言も発しなかった。すると文殊は「大いに結構である。不二の法門は、文字も言葉も全く超越してしまっているものなのだ」と叫んで、それを賞賛したのであった。-----

 「不二法門」とは、常識的には「生」と「死」のように明らかに異なると分別される「二」を、敢えて分別せずに「不二」と見なすことで、何ものにも囚われぬ自由な境地に到達することだ、と説明されています。ただし、このように言葉で説明する事自体が「不二法門」の意味を捻じ曲げてしまうので、黙り込んで何も答えなかった維摩だけが、真の理解者だと評価された訳です。しかしこれには不満です。科学はどんな謎も、数学という言語で記述し解明できるものと信じます。

  【6】「不二法門」は言葉で説明できない?

 例えば量子力学でも、「1個の素粒子は「粒子」か「波」か?」という難問が有りました。禅問答ふうに書けばこうなります。弟子=「粒子ですか?」、師匠=「いや、波だ」、弟子=「波ですか?」、師匠=「いや、粒子だ」。こんな問答で弟子が悟れるはずが無いし、師匠の方も理解しているとは思えません。現実にはどうなったかというと、量子力学はフーリエ変換/逆変換という数学的手法により「粒子」と「波」とを統一し、この謎を完全解明しました。まさに科学の勝利です。そしてこういう時、絶大な力を発揮するのが数学です。

 「真如」の説明はこうでした。-----「真如とは存在するものでも非存在なるものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在しないのでもないというのでもない。」-----矛盾していて全く無意味です。
 そこで、量子力学の多世界解釈を利用します。シュレディンガーの猫の生死を観測した自分は、「生」だった世界W1に居る「自分1」と、「死」だった世界W2に居る「自分2」とに分裂します。世界W1は、「自分1」にとっては「存在する」ですが、「自分2」にとっては「存在しない」です。世界W2は、「自分2」にとっては「存在する」ですが、「自分1」にとっては「存在しない」です。これだと何も矛盾は無く、正確に記述できています。世界W1も世界W2も、以下のダブル・トートロジーが成立しているだけです。
   「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する。
   「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する。
こう考えると、「なぜ存在するのか?」、「なぜ存在しないのか?」という謎自体が無くなります。
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SumioBaba 
    【補足説明14】大乗仏教の「真如」【7】~【9】

  【7】多世界解釈を用いた「不二法門」の説明

 「SB量子神学」に則って「不二法門」の説明をするとしたらこうなるでしょう。多世界解釈の応用です。

…シュレディンガーの猫の生死を観測すると、自分は「生」か「死」のどちらか一方だけを知覚・認識したように感じるので、「生」と「死」ははっきり異なるという意味で「二」である。しかし、多世界解釈によると自分は、猫が「生」だった世界W1に居る「自分1」と、猫が「死」だった世界W2にいる「自分2」とに分裂し、両者は線形の重ね合わせのまま時間発展していく。自分は本当は「生」と「死」の両方を平等に体験しているのであり、両方を体験している自分が1人居るのだという意味で「不二」である。
 これは、すべての場合について言える。勝負における「勝ち」と「負け」、試験における「合格」と「不合格」、人生における「幸福」と「不幸」、…等々。多世界解釈によれば、限りなく世界(自分の心)が分裂し、あらゆる分岐において自分は両方を体験している。
 これを究極まで拡張する。真の自分は全知全能の「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を線形の重ね合わせのまま、全部体験していると言える。こう考えると、幸福な人生も不幸な人生も、善人の心も悪人の心も、「神」の貴重なコレクションの1つであり、有りのままに楽しめる。このような心境に至ることを、不二の法門に入ったと言われるのである。…

  【8】「絶対的真如」から「条件付き真如」へ

 -----〔条件付きの真如〕すべての個別化の方法を拒否する絶対的超越的真如は、それがそのままのかたちで留まっている限りは、現象世界や人間の生活の中に直接的な意味を持つことはない。それが直接的意味を持つためには、自然の中の法則性としての条件付きの真如、そして我々の現実世界における倫理的規則としての真如になる必要がある。絶対的な真如というものは、あまりにも遠く、あまりにも抽象的であって、形而上的価値しか持っていないとも言える。超越的である限りにおいては、それが存在してもしなくても、我々の日常的な精神生活には影響がないように思えるのである。真如が我々の限りある意識の中に入り、我々の意識活動の規範となり、そして自然における進化的流れを制御するためには、その「輝ける孤高」を放棄し、絶対性を捨て去らねばならないのである。-----

 いよいよ、真如の二面性が出て来ます。「絶対的真如」とは「空」M0を意味しており、物理法則にも心理法則にも無矛盾な論理法則にも縛られず、特定の意識を持ちません。特定の意識状態であるということは、その状態だけに縛られていることになるからです。一方、「条件付き真如」こそが「色」M1、M2、M3、…を意味し、人間の心がそれです。「絶対的真如」が、なぜか自ら全知全能を放棄し、物理法則や心理法則や無矛盾な論理法則に縛られた無数の「条件付き真如」に分裂するのです。

  【9】森羅万象は「条件付き真如」が産み出す

 -----このように、真如が思考不可能領域の王座から降り来った時、我々の現前には多彩かつ壮麗な宇宙が展開することになる。天球にちりばめられて瞬く星々、新緑の草原やそびえ立つ山や逆巻く波によって美しく飾られた地球、森で明るくさえずる鳥、叢林をかける獣、白雲の湧きあがる夏空と、その下の大地で豊かに茂る樹木、生き物のかげもなく、渺々たる北風にふるえる裸の木々だけが目につく冬の大平原、こういった光景は、数学、天文学、物理学、化学そして生物学の諸法則からはいささかも逸脱するものでなく、しかも、自然の中における条件付き真如の働きにほかならないのである。…。つまり、主観、客観を問わず、この現象世界に現れる万華鏡的変化のすべては、条件付き真如の手によるものなのである。それは生活の中の善や幸福を形成するばかりでなく、肉体に咎が及ぶ罪悪や犯罪、苦しみをもつくるのである。-----

 仏教は基本的に「唯識」(観念論)の立場を取りますから、客観的物質世界なるものが実体として実在している訳ではない、と強調します。実在するのは、「空」M0である「絶対的真如」と、それが自分の全知全能を封印して降り来った「色」M1、M2、M3、…すなわち「条件付き真如」だけであり、森羅万象はこの「条件付き真如」が産み出している、ということになります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/23 3:01
SumioBaba 
    【補足説明15】大乗仏教の「真如」【10】~【12】

  【10】なぜ「絶対的真如」は「条件付き真如」に化けるのか?

 -----〔解決を拒む問題〕世界が真如の顕現であるとすると、ここで我々はきわめて不可解な問題に直面することになる。その問題は、人間が知性を持つようになって以来、最もすぐれた人々の心を悩まし続けてきたものである。それはすなわち、「真如はなぜ神秘的な超越性の世界に留まり続けず、様々な不幸が我々に押し寄せているこの地上へと降りてきたのか。自分自身の絶対性の、言語を絶した至福を享受できるというのに、わざわざこの世の塵にまみれるということにはいかなる本来的必然性があったというのか。すなわち、絶対的真如は一体どうして条件付き真如になるのか」という疑問である。こういった疑問は人間に関わりのないことであるといって片づけてしまうのが、不可知論者や実証主義者のやり方である。しかしこれらの問題は、人の心がお遊び気分で気まぐれに思いついたものではない。それはかつて我々に課せられた問題の中でも最も重大なものであり、人生の意義は、ひとえにそれらの問題をどう解決するかにかかっているのである。-----

 まさにその通り、これが最大の謎です。「SB量子神学」の言葉で表現すると、「なぜ全知全能の「神」は、敢えて全知全能でない人間なんか作ったのか?」です。
 もちろん、「なぜ作ったのか?」を合理的に説明する必要が有ります。と同時に、「神」は全知全能であるため、「作っている」と「作っていない」の両方を実現している必要が有ります。これをどう説明するか?

  【11】なぜ「神」は全知全能でない人間を作ったのか?

 -----この謎が、限定された知性や論理的証明能力の領域を絶対的に越えてしまっていることから、人の心に依るだけでそれを解決することはできないということを仏教は認める。-----

 《謎》=「なぜ「神」は、敢えて全知全能でない人間を作ったのか?」。「SB量子神学」の答はこうです。《答》=「「神」は、本当の意味で「全知全能である」を満たすため、「全知全能である」だけでなく、その否定である「全知全能でない」をも実現する必要が有るから」。「全知全能である」が「絶対的真如」すなわち「空」M0であることを意味し、「全知全能でない」が「条件付き真如」すなわち「色」M1、M2、M3、…であることを意味します。両方実現して初めて弁証法的に、「神」は本当の意味での「神」(合)=「全知全能である」(正)+「全知全能でない」(反)になり得るし、「真如」もまた「真如」(合)=「絶対的真如」(正)+「条件付き真如」(反)になり得るのです。

 しかも、個々の心M0、M1、M2、M3、…は「半存在」であり、「存在する」と「存在しない」の両方が実現されています。M1とM2とが、シュレディンガーの猫の「生」と「死」を知覚する心のように互いに矛盾する情報を持つ時、どちらも「自分にとって自分の存在確率は1」ですが、「自分にとって相手の存在確率は0」です。<Mi|Mj>=δij〔i=jのときδij=1、 i≠jのときδij=0〕。だから「神」は、「色」M1、M2、M3、…を「作っている」でもあれば「作っていない」でもあり、「なぜ作ったのか?」、「なぜ作らなかったのか?」という謎自体も無いのです。

  【12】「空」M0の中に「色」M1、M2、M3、…が在る

 -----宗教には、自分が提示する命題を自然科学のやり方にならって証明する義務などない。宗教は事実をそのままに説けばよいのである。そして知性の方は、それが本来持つ限界によって束縛されてはいるものの、全力を挙げてそれらの事実を首尾一貫したひとつの体系へと組み上げていかねばならないのである。-----

 先程の謎です。《謎》=「なぜ「絶対的真如」は、敢えて「条件付き真如」に化けたのか?」。こう答えれば良いはずです。《答》=「「絶対的真如」は、「何も限定されない」ため、「何も限定されない」をそのまま実現して「絶対的真如」のままでもいられるし、「「何も限定されない」にさえ限定されない」すなわち「何かに限定される」を利用して「条件付き真如」にもなれるから」。
 「真如」の本質は「何ものにも縛られない」です。そしてこの「何ものにも縛られない」をそのまま実現したのが「空」M0です。ところがもしこれだけだと、「真如」は「何ものにも縛られない」という法則にだけは例外的に縛られていることとなり、「真如」の完全性に傷が付いてしまいます。完全性を満たすために「真如」は、「「何ものにも縛られない」にも縛られない」すなわち「何かに縛られる」をも実現する必要が有ります。それこそが「色」M1、M2、M3、…なのです。なお、「「「何ものにも縛られない」にも縛られない」にも縛られない」は「何ものにも縛られない」に戻るため、これ以上考える必要は無いようです。

 しかも、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕が成立しています。左辺が「空」すなわち「絶対的真如」であり、右辺が「色」すなわち「条件付き真如」です。右辺は線形の重ね合わせであり、M1、M2、M3、…と見なすこともできるし、(M1+M2)、(M3+M4)、(M5+M6)、…と見なすこともできるし、(M1+M2+M3)、(M4+M5+M6)、…と見なすこともできるし、…、(M1+M2+M3+…)が1つだけと見なした場合にはそのままM0になります。M0はM1、M2、M3、…に分裂するまでもなく、M0であることがそのままM1、M2、M3、…のどれでもあるのです。「空」M0=「?????…」は、全体としては完全な無意識状態ですが、その部分の中にすべての「色」M1、M2、M3、…を含んでいるのです。M0=M0+M1+M2+M3+…と書くこともできます。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/28 2:55
SumioBaba 
    【補足説明16】大乗仏教の「真如」【13】~【15】

  【13】「絶対無」と「絶対有」の「絶対矛盾的自己同一」

 「SB量子神学」では仏教の「唯識」と同様、「観念論」の立場を取るため、実在するのは心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}だけであり、それ以外に客観的物質世界なるものの実在は考えません。物質世界はすべて、個々の心の中に観念として存在するだけです。心の状態を、それが持つ情報に注目してMi=「abcde…」(個々のa、b、c、d、e、…は独立して「0」、「1」、「?」=x「0」+y「1」の3つを取り得る)と表現すると、全部で3^N種類の心が存在し得ます(N→∞)。すべてのビットが「?」で無意識となっているのが「空」M0=「?????…」です。「色」M1、M2、M3、…は、少なくとも1ビットは「0」か「1」に確定し、特定の意識内容を持つ状態です。そして、「「?」は「?」であって「0」や「1」ではない」ではなく、「「?」は「?」であるだけでなく「0」でも「1」でもある」と考えます。だから「空」M0=「?????…」は、全体としては無意識ですが、その部分にすべての「色」M1、M2、M3、…を含んでいることになります。

 西田幾多郎も同じことを主張しています。「空」M0が「絶対無」であり、すべての「色」M1、M2、M3、…が「絶対有」であり、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕は両者の「絶対矛盾的自己同一」を表していて、M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}こそが「神」です。

  【14】「無明」とは真の自分を知らないこと

 -----〔無明論〕無明すなわち無知の理論とは、一と多、絶対的真如と条件付き真如、法身と一切衆生、菩提と煩悩、涅槃と輪廻の関係を解決するための仏教徒による試みである。…。すなわち無明は、…、真如という永遠の大海に、哮り狂う存在の大波を引き起こす。さらには涅槃の静寂を破って、永久にめぐり続ける輪廻の車輪を回すのも無明であるし、真如を映し出す清明な菩提の鏡を覆い隠すのも、そして真如の同質一元性を彼我の二元性に転換し、多くの錯乱した心をエゴイズムへと導いて、あらゆる有害な結果をもたらすのも無明なのである。-----

 「無明」とは、「色」である人間の心M1が、本当は自分が「空」M0すなわち「絶対的真如」であることを認識できず、自分を1人の人間だと思い込み、M1だけに執着してしまうことです。すると、大切なのは自分の心M1だけであり、他人の心M2、M3、M4、…が苦しもうと悲しもうと平気でいられる利己的な価値観を持ってしまいます。さらに、他人の心M2の方がM1よりも幸福だったりすると、M2に嫉妬し、M2の不幸を願ってしまったり、M2に害を及ぼし罪を犯すことさえあります。
 本当の自分は単なるM1ではなく、「絶対的真如」M0なのであり、M0はすべてのM1、M2、M3、…すなわち「条件付き真如」でもあるのだと悟れば、「無明」から抜け出せる訳です。

  【15】「SB量子神学」と大乗仏教における悟りは同じもの

 大乗仏教の教えを簡単に表現すると、こう言えるのではないでしょうか。…「真の自分は「真如」M0、M1、M2、M3、…であると悟れ。そして1人の人間としての自分の心M1に執着するな。そうすれば、すべての煩悩を超越できるだろう。」…「SB量子神学」の悟りと全く同じ内容です。

 「SB量子神学」で悟りを開く方法は、極めて簡単でした。…「全知全能の「神」が実在し、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を平等に体験しており、自分こそがその「神」である。」…こう思い込むだけで十分です。1人の人間としての現在の自分の心をM1とし、自分が体験しているのはM1だけだと思い込むと、「なぜ他のM2、M3、…ではなくこのM1なのか?」という謎と、「もっとこうありたかったのに…」というM1に対する不満が生じてしまいます。そこで、本当の自分は「神」なのであり、すべてのM0、M1、M2、M3、…を平等に体験しているのだと悟れば、M1に対する謎も不満も消滅します。
 「神」も「真如」も、その定義は「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」で一致します。「真の自分は「神」M0、M1、M2、M3、…(=「真如」)であると悟れ。そして自分の心M1に執着するな。そうすれば、すべての煩悩を超越できるだろう。」となり、「SB量子神学」の悟りは、大乗仏教の教えと完全に一致します。

 もっとも、仏教関係の本、例えば『般若心経』の解説書を10冊読んでみると、「空」と「色」についての説明が、本ごとに異なります。仏教を正式に学んだ専門家たちでさえ、みんな自分流に解釈しているのが現状であり、仏教の解りにくさを示しています。「空」がM0、「色」がM1、M2、M3、…だとするのは「SB量子神学」特有の定義です。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/12/5 4:26
SumioBaba 
    【補足説明17】大乗仏教の「真如」【16】~【18】

  【16】死の恐怖も悟りで消滅する

 大乗仏教では、悟りを開いた菩薩たちは大いなる慈悲を持って、悟りを開けずに苦しんでいる凡夫たちを救済しようとします。悟りを開くとは、真の自分が1人の人間の心M1などではなく、本当は「真如」であることに気付くことでした。言わば、1人の人間としての自分の心M1は、全知全能の「神」が見ている無数の夢M0、M1、M2、M3、…の中の1つに過ぎない、と理解することです。そうすればM1の状態に囚われる必要は無くなり、M1が幸福なら幸福を、M1が不幸なら不幸を、ありのままに楽しめば良いことになります。

 さらに、1人の人間としての自分が生まれてから死ぬまでの心の状態を、短い時間間隔に分割してMa~Mzとすると、Ma(誕生)→Mb→Mc→…→Mk(現在)→…→Mx→My→Mz(死亡)という時間の流れと自己同一性を実感します。そしてMz(死亡)の後は存在しないため、「死」の恐怖が生じてしまいます。しかしこれは、Mk(現在)の意識内容からそう感じるだけです。本当は「Mk(現在)はMk(現在)である」という自己認識がたった1つ存在するだけであり、過去も未来も存在しないとする「独今論」も成立し得ます。
 真の自分は「神」であり、すべての心Mi(i=0、1、2、3、…)による「MiはMiである」を、線形の重ね合わせM0=M1+M2+M3+…のままで体験している、と解釈することができます。個々のMi(i=0、1、2、3、…)には発生も消滅も有りません。あるいは「神」は全知全能であり、どのMx(x=0、1、2、3、…)からどのMy(y=0、1、2、3、…)へも、Mx→Myという時間の流れを実現している、と解釈することもできます。こう考えると、人間に「死」は有りません。
 菩薩はそれを悟っていますが、凡夫は悟れず「死」の恐怖に怯えています。菩薩は、凡夫が他人ではなく自分(真如)の一部であることも理解しているので、何とか救済してあげたいと願い、入ろうと思えばいつでも入れる涅槃にさえ入ることを拒絶し、この世に生まれて来るのです。

  【17】なぜ「無明」は有るのか?

 -----ここにおいて我々は、解決しようとしてもできない非常に不思議な事実に直面する。すなわち、無明つまり意識は、どのように、そしてなぜ、存在の絶対的な静寂さから呼び覚まされるのか。どのように、そしてなぜ、心理作用の波が、永遠なる平安の大海のうちに巻き起こるのかという問題である。馬鳴はそれを簡単に「自ずから」と言っているが、これではなんの説明にもならない。少なくとも、いわゆる科学的解釈として通用するものではないし、我々に対してなんらかの理由を示すものでもない。…。なぜ無明があるのかという疑問は、なぜ真如があるのかという疑問と同じく、誰にも答えることはできない。-----

 こういう謎に「SB量子神学」は簡単に答えます。「なぜ真如があるのか?」、「なぜ無明があるのか?」…答は簡単で、「真如も無明も、「有る」と「無い」の両方が実現されているから、「なぜ有るのか?」、「なぜ無いのか?」という謎自体が存在しない。」です。M0=M1+M2+M3+…を使います。左辺を見ると、「絶対的真如」M0だけが存在し、M1、M2、M3、…は重ね合わせられて消滅しており、「無明」は有りません。右辺を見ると、「無明」が有って「条件付き真如」M1、M2、M3、…が発生しており、「絶対的真如」M0の方が存在していません。しかも、左辺=右辺、です。

  【18】何一つ謎を隠蔽しない説明

 世界の初めをXとしてみます。もしXが、すでに「存在する」か「存在しない」のどちらか一方に確定していると仮定したり、特定の物理法則や特定の心理法則や無矛盾な論理法則に従うと仮定すると、「なぜ?」という謎が生じてしまいます。「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのさ。」と決め付けてしまうと、この謎は永久に隠蔽されてしまいます。科学は、法則によってこの世界を説明しますが、その代償として「なぜ法則なんかに縛られるのか?」「なぜ他の法則ではなくこの法則なのか?」という謎を隠蔽してしまい、これを追究すると無限後退に陥ってしまいます。

 謎を何一つ隠蔽しないためには、Xはあらゆる○○○に対し、「○○○である」でもあり「○○○でない」でもある、とする必要が有ります。「SB量子神学」でいう「神」も、大乗仏教でいう「真如」も、これを満たしています。「神」が本当の意味で全知全能であるためには、「全知全能である」だけでなく「全知全能でない」も実現せねばならないし、「存在する」、「存在しない」、「存在する」+「存在しない」の3つすべてを実現せねばならない、と考えます。「神」について、何一つ限定してはならない、と主張しているのが「SB量子神学」です。そしてそこから、存在し得るのは「空」M0と「色」M1、M2、M3、…の2種類であることを、説明します。その際、物理法則や心理法則は何も用いずに、論理法則もまた矛盾が「有る」とも「無い」とも限定すること無しに、説明する事が要求されます。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/1/9 6:41
SumioBaba 
    【補足説明18】大乗仏教の「真如」【19】~【21】

  【19】「SB量子神学」の「神」と大乗仏教の「真如」は同義語

 「SB量子神学」でいう「神」と、大乗仏教でいう「真如」とは、殆ど同一の概念だと言えそうです。「神」(真如)は、本当の意味で全知全能であるべく、「全知全能である」(絶対的真如)だけでなく「全知全能でない」(条件付き真如)の状態をも実現する必要が有ります。前者を実現している状態が「空」M0であり、後者を実現している状態が「色」M1、M2、M3、…です。そして、両方を併せたものが「神」であり、その定義は「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」になります。
 西田幾多郎の言葉で言うと、「絶対無」M0と「絶対有」M1、M2、M3、…とが「絶対矛盾的自己同一」M0=M1+M2+M3+…したものが「神」M0、M1、M2、M3、…でした。
 個々の心M0、M1、M2、M3、…はどれも「半存在」ですから、「存在する」と「存在しない」の両方が実現されています。どんな○○○に対しても、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方が「半存在」しています。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけです。だから、自分こそが「神」であり、すべてのM0、M1、M2、M3、…を体験しているのだと考えれば、「なぜ「○○○である」のか?」、「なぜ「○○○でない」のか?」という謎自体が消滅します。「神」に謎は何も有りません。

  【20】「空」M0と「色」M1、M2、M3、…の違い

 「色」M1、M2、M3、…の方は特定の意識内容を持ち、「MiはMiである」(i=1、2、3、…)という自己同一性が成立せねばならず、無矛盾な論理法則に従うことが必要です。
 さらに物理法則や心理法則も、全く成立していなければタイム・パラドックスなどで矛盾が生じるため、矛盾を防ぐ程度には成立していることが要求されます。物理法則や心理法則が曖昧だと実感している心は、長時間存続する保証が無いため、夢のような、数秒か数分程度で消滅する貧弱に心になってしまうでしょう。自分の心M1は、宇宙が140億年も続き、人生が平均寿命80年も続くと実感します。その理由は、「神」が見ているM1という夢の中では、多数の物質粒子が存在し、厳密な物理法則に従っており、物質である脳の機能に心が随伴するという二元論的構造になっている、という設定だからです。

 量子力学で、面白い現象が有ります。光路Aを進んでいる光子を、確率1/2ずつで光路Bと光路Cとに分けます。さらに光路Cの方を確率半分ずつで光路C1と光路C2とに分け、2つの波を半波長ずらして重ねると、光路Cの方は打ち消し合い消滅します。すると、何と奇妙なことに、光路Aを通っていた光子は初めから確率1で光路Bだけに進み、光路Cへと進む確率は0になります。
 現在自分が住む世界Waは、本当は確率0.9999…9999で物理法則に従わない時間発展Wa→Wcをしており、物理法則に従う時間発展Wa→Wbをしている確率は0.0000…0001だ、と考えてみましょう。ただし、Wa→Wcの方は物理法則を否定してしまっているため、その後の状態が定まらず、存在し得るすべての状態Wp、Wq、Wr、…および-Wp、-Wq、-Wr、…に等確率でなるとすれば、Wcの一瞬後はそれらの重ね合わせにより、消滅してしまいます。こういう場合、観測にかかるのは確率1でWa→Wbだけとなり、Wa→Wcが観測にかかる確率は0になります。だから、本当は物理法則など無いのに、いかにも物理法則に縛られているように錯覚するだけだ、という説明が可能です。

 一方「空」M0は、どんな物理法則にも心理法則にも、無矛盾な論理法則にさえ縛られません。存在し得るすべての「色」M1、M2、M3、…の中には、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方が含まれているはずです。それらを全部重ね合わせたのが「空」M0ですから、M0は完全矛盾状態にあります。「空」M0は、何らかの法則に従って「色」M1、M2、M3、…に変化するのではなく、言わば自ら論理に矛盾を生じさせることで「M0はM0である」という同一律を否定し、「M0はM0でない(M1、M2、M3、…のどれかである)」を利用して「色」M1、M2、M3、…に化けるのです。

  【21】「SB量子神学」の理論構成

 「SB量子神学」の中身は、次の3つの命題です。【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。」、【{M}の実在】=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在(半存在)している。」、【神の全知全能性】=「神は全知全能である(全知全能の神が存在する)。」。3つは互いに必要十分の関係にあり、【究極原理】1つだけを証明無しに「公理」に定め、【{M}の実在】と【神の全知全能性】の2つを「定理」として証明します。
 さらにこの上で、「謎」という言葉に考察を加えます。人間は、「○○○である」と「○○○でない」の片方しか認識できないので、「なぜ片方だけが実現しているのか?」という謎を感じます。そこで量子力学の多世界解釈を採り、本当はあらゆる○○○について、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方が実在しており、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、というダブル・トートロジーが成立しているだけだと考えます。すると「謎」=「必ずトートロジーに解消できる命題」となり、【究極原理】もまたトートロジーに解消されます。そして「SB量子神学」全体が、何一つ仮定を含まないトートロジーであり、絶対的真理だと見なせることになります。


 「SB量子神学」についての詳しい説明は、Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』の《基礎論》(ASIN:B019FR2XBC)と《詳細論》(ASIN:B019QNGL4K)の中にあります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/1/10 16:29
SumioBaba 
    【補足説明19】大乗仏教の「真如」【22】~【24】

  【22】多世界解釈の自然な拡張

 二重スリット実験で、1個の素粒子が左右のスリットを確率1/2ずつで通るようにします。そして、どちらを通っていたかを自分が観測すると、「左」または「右」という結果が得られます。こういう実験を100回繰り返すと、世界が、そして自分の心が、2^100種類に分裂し、線形の重ね合わせのまま存続する、と考えるが多世界解釈です。量子乱数を用い、確率1/3で「観測しない」まで含め、「左(0)」、「右(1)」、「不明(?)=(0)+(1)」、の3つに確率1/3ずつで分けるなら、3^100種類に分裂します。
 人間は3^100種類の中のどれか1つだけしか認識できないため、「なぜ3^100種類の可能性の中から、この1つだけが選ばれて実現したのか?」という謎を感じてしまいます。そこで多世界解釈は、3^100種類の世界がすべて平等に実現したのだと考えることで、この謎を消滅させます。

 これを応用するのが「SB量子神学」です。現在の自分の心M1は、自分が住む世界W1の状態について、何万ビット、何億ビットという情報を持っており、それをM1=「01?1?00?101?…」(「0」または「1」または「?」が合計N個並ぶ)のように表現します。なぜか自分は、このM1の視点に立っていますが、ここでも本当は個々のビットが「0」「1」「?」を独立して取り、3^N種類の心がすべて線形の重ね合わせのまま存在しているのではないか?と考えます(N→∞)。多世界解釈の自然な拡張になっています。
 こう考えると、自分の心M1が世界W1について感じていた「なぜ○○○なのか?」(なぜ「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方だけが選ばれて実現したのか?)という謎が、すべて消滅します。3^N種類の心の中には、「○○○である」と認識している心と「○○○でない」と認識している心の両方が存在するのであり、謎は事実誤認だったことになるのです。

  【23】「真如」「絶対的真如」「条件付き真如」の定義

 《問1》=「真如」の定義は何か?
 《答1》=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」が「真如」の定義。「SB量子神学」の「神」と全く同じ。

 《問2》=「絶対的真如」とは何か?
 《答2》=「空」M0を指す。「真如」が「何も限定されない」をそのまま実現している状態。「SB量子神学」の「神」が「全知全能である」を実現している状態と同じ。特定の物理法則にも特定の心理法則にも無矛盾な論理法則にも従わず、特定の意識状態にも限定されないため、完全無意識状態。(M0が完全無意識状態であるという事自体、他の有意識状態M1、M2、M3、…ではなく、特定のM0だけに限定されているではないか?、という疑問が生じる。だからこそM0は、M0であると同時に、他のM1、M2、M3、…のどれでもあらねばならず、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕が成立するのである。左辺を見れば「M0はM0だけに限定されている」だが、右辺を見ると「M0はM0だけに限定されておらず、M0、M1、M2、M3、…のどれでもある」、という矛盾を実現している。)

 《問3》=「条件付き真如」とは何か?
 《答3》=「色」M1、M2、M3、…を指す。「真如」が「「何も限定されない」にも限定されない」つまり「何かに限定される」を実現している状態。「SB量子神学」の「神」が「全知全能でない」を実現している状態と同じ。特定の物理法則や特定の心理法則や無矛盾な論理法則に縛られ、特定の意識を持つ状態。「MiはMiである」(i=1、2、3、…)という自己同一性が成立せねばならないので、無矛盾であることが必要な状態。

  【24】「真如」M0、M1、M2、M3、…はすべて「半存在」

 《問4》=「真如」は「存在する」のか?、「存在しない」のか?
 《答4》=「真如」{M}の要素である個々のM0、M1、M2、M3、…はどれも「半存在」なので、「絶対的真如」M0も「条件付き真如」M1、M2、M3、…も、同じく「半存在」。すなわち、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する、のダブル・トートロジーが成立しているだけ。一方だけに確定していないため、「なぜ存在するのか?」「なぜ存在しないのか?」という謎自体が無い。

 《問5》=なぜ「絶対的真如」M0は、自分の全知全能性を封印し、敢えて「条件付き真如」M1、M2、M3、…に自ら降り来るのか?
 《答5》=「絶対的真如」は「何も限定されない」であり、これを徹底させると、「「何も限定されない」にも限定されない」つまり「何かに限定される」をも実現せねばならないから。ただし、M0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕、すなわち「絶対的真如」=「絶対的真如」+「条件付き真如」である。「条件付き真如」は、右辺を見ると「存在する」であるが、左辺を見ると「存在しない」でもある(これが「半存在」)。つまり「絶対的真如」は「条件付き真如」に、自ら降り来っているでもあり、自ら降り来っていないでもある。両方が実現されているので、「なぜ降り来っているのか?」「なぜ降り来っていないのか?」という謎自体が無い。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/1/29 18:37
SumioBaba 
    【補足説明20】大乗仏教の「真如」【25】~【27】

  【25】「真如」のダブル・トートロジー

 《問6》=「真如とは存在するものでも非存在なるものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在しないのでもないというのでもない。それは一なるものでなく、多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでないというのでもない」という矛盾に満ちた表現を、矛盾なく説明せよ。
 《答6》=これは「真如」が、「存在する」と「存在しない」、および、「一である」と「多である」について、ともにダブル・トートロジーを成立させていることだ、と理解される。つまり以下の(1)(2)と(3)(4)である。
  (1)「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する。
  (2)「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する。
  (3)「一である」と認識する視点に立てば「一である」と認識する。
  (4)「多である」と認識する視点に立てば「多である」と認識する。
「真如」すなわちM0、M1、M2、M3、…は「半存在」であり、(1)と(2)を満たしている。「真如」は「絶対的真如」M0でもあれば「条件付き真如」M1、M2、M3、…でもあり、(3)と(4)を満たしている。

  【26】〔色即是空・空即是色〕M0=M0+M1+M2+M3+…

 結局すべての謎は、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕で説明されることになります。「空」M0は完全な無意識状態であり、数の0と同様に、「有る」=「無い」が成立するので、「「有る」と言えば「有る」」、「「無い」と言えば「無い」」という意味で「半存在」です。(これこそが「不二法門」)。

 5は、5+0でもあるように、右辺にも「空」M0を含ませてM0=M0+M1+M2+M3+…と書くこともできます。この右辺を見ると、「空」M0以外に「色」M1+M2+M3+…が存在していますが、左辺を見ると、「空」M0だけが存在して「色」M1+M2+M3+…は存在しません。そしてもちろん、左辺=右辺、ですから、「色」M1+M2+M3+…もまた「「有る」と言えば「有る」」(右辺)、「「無い」と言えば「無い」」(左辺)という意味で「半存在」です。(これこそが「不二法門」)。

 「全知全能の「神」はなぜ、全知全能でない人間を作ったのか?」という謎も同様で、M0=M0+M1+M2+M3+…がすべてです。右辺を見ると、「神」は全知全能である「空」M0だけに留まらず、人間の心である「色」M1+M2+M3+…も作り出しています。左辺を見ると、「神」は全知全能である「空」M0だけに留まり、人間の心である「色」M1+M2+M3+…は作り出していません。そしてもちろん、左辺=右辺、です(これこそが「不二法門」)。

  【27】「真如のパラドックス」の超越

 「真如」のパラドックスを思い出しましょう。「真如」は何も限定されないものですから、あらゆる○○○について、「○○○である」も「○○○でない」も、両方を満たす必要が有ります。しかし、もし「真如である」=「○○○である」と定義してしまうと、「○○○でない」の方を放棄することになってしまいます。「真如である」は「真如である」かつ「真如でない」でなければならず、だからこそ「真如」は言葉で定義できない、というパラドックスでした。

 このパラドックスは、「真如」を集合として定義することによって超越できているのです。「真如」の定義は、「SB量子神学」の「神」と同じで、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」でした。つまり「真如である」=「全体集合{M}である」です。では、この否定である「真如でない」は何を意味するでしょうか? 言葉だけだと、「真如でない」=「全体集合{M}でない」になりますが、これには2通りの解釈ができます。

 1つは「真如でない」を{M}の外部に求め、{M}に含まれていない心の状態だと見なすことですが、{M}は存在し得る心の状態すべてを網羅しているため、その外部はφ(空集合)になります。従って、「真如でない」=φ(空集合)を放棄したと言っても、実際には何も放棄していない訳です。あるいは、「真如でない」=φ(空集合)は、「真如である」=「全体集合{M}である」に、部分集合として含まれていると見なすこともできます。

 もう1つは、「真如でない」を{M}の内部に、{M}の部分集合{Ma}であると定義することです。{Ma}の要素が0個ならφ(空集合)になり、1個なら個々の要素であるM0、M1、M2、M3、…になります。ところが今度は、「真如である」=「全体集合{M}である」と「真如でない」=「部分集合{Ma}である」とは背反的関係ではなくなり、「真如である」⊃「真如でない」という包含関係になります。実際、個々のM0、M1、M2、M3、…はどれも「半存在」なので、部分集合{Ma}の補集合を{Mx}とするとき、{Ma}と{Mx}の両方の要素が「存在する」でもあるし、{Ma}の要素は「存在する」だが{Mx}の要素は「存在しない」、でもあります。だから「真如」は、「真如である」と同時に「真如でない」をも含んでおり、矛盾は超克されているのが理解できます。


 「SB量子神学」についての詳しい説明は、Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』の《基礎論》(ASIN:B019FR2XBC)と《詳細論》(ASIN:B019QNGL4K)と《メールマガジン1~30》(ASIN:B01AP012EU)と《メールマガジン31~60》(ASIN:B01AXG6LQW)の中にあります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/6 13:50
SumioBaba 
            「クオリア統一理論」とは?
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.91】』からの引用です。)


 「神」の定義は完全に解明できました。「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」です。そこで次に解明すべき問題は、この存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…とは具体的にどんなものになるだろうか?という点です。
 「クオリア統一理論」とは、たった1つだけの基本クオリア(あるいは、2進法の0・1に対応するたった2つだけの基本クオリア)を用い、人間が認識できる多種多様なクオリアのすべてを、この基本クオリアの複雑な組み合わせ・絡み合いとして説明しようとする試みです。

 人間の心が感じる様々な感覚質を「クオリア(qualia)」と呼びます。主観的な「心」を作り出している原子のようなものです。
 クオリア問題を、大変困難でつかみ所の無いものにしている最大の原因は、我々人間が多種多様のクオリアを感じることができながら、それらの構造分析が殆ど試みられていない点に有ると思われます。五感だけを考えても、「色・形」「音」「匂い」「味」「手触り」と、人間の感じるクオリアは多種多様です。さらに、「喜」「怒」「哀」「楽」の感情、言葉の「意味」、「時間感覚」や「空間感覚」、デカルトが「我思う、ゆえに我在り」と表現した「自我の存在感覚」なども、もちろんクオリアの一種です。
 「クオリア」という言葉をもっと狭義に定義する人もいますが、「SB量子神学」および「クオリア統一理論」では、最大限に拡張した広義の定義を選びます。それゆえ、人間の心を構成しているものはすべて「クオリア」です。しかも観念論の立場を取るため、存在するものすべてが「クオリア」であり、「クオリア」以外には何も存在しない、ということになります。

 五感の1つ、例えば「音」を、他の4つである「色・形」「匂い」「味」「手触り」を適当に混ぜ合わせることで、作り出せるでしょうか? どう考えても我々人間は、これら5つを全く異なるクオリアに感じてしまい、どれか1つを他の4つで合成することなど不可能に感じてしまいます。しかしだからといって、これらを互いに相互転化不可能な、クオリアの「元素」だと決め付けてしまうのは早計です。
 化学では不可能だった「錬金術」が、原子核の分裂・融合で可能になった例が、参考になります。「鉄、鉛、錫の3つを適当な比率で混ぜ合わせることで、金を合成せよ」…この問題は、化学の範囲では解けない問題であることが判明しました。これら3種類をどんな比率で混ぜ合わせても、金にはなりません。ところが、原子核の融合・分裂まで利用すれば、「錬金術」は可能です。鉄、鉛、錫の原子を、陽子・中性子・電子にまで分解し、それらを好きなように並べることができるなら、金の原子を合成できます。
 かつてまだ化学が幼児期だった頃、「火」「水」「木」「金」「土」などが我々の住む物質世界を構成する「元素」であると考えられていたようです。しかし、化学の進歩により、物質は分子でできており、分子は何個かの原子によって構成されている事が判明しました。さらに、原子は素粒子にまで分解され、クォークやレプトン、超弦理論なども登場し、究極的にはたった1種類の「基本単位」で、物質世界のすべてが説明できるかもしれない、と期待されています。クオリア分析の方は、物質世界の「元素」を「火」「水」「木」「金」「土」であると考えていた時代と同じくらい、まだまだ幼児期にあるのかもしれません。

 現在の科学は、「物質こそが真の実在である」と考える[唯物論]の立場に立って進歩して来ました。だから、物質世界の構造分析の方は大成功しました。これも1つの、世界を理解する方法です。
 一方、「心こそが真の実在である」と考える[観念論](唯心論)という立場も考えられます。この場合、心が感じるすべてのクオリアを構造分析し、単純な「基本単位」ですべてのクオリアを説明できれば、これもまた1つの、世界を理解する試みだと言えます。後者の試みこそが、「クオリア統一理論」です。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/12 20:45
SumioBaba 
            「Q2理論」とは?
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.92】』からの引用です。)


 クオリアの「元素」に相当する基本クオリアを、「元素クオリア」と呼んでおきます。我々人間が感じることのできる多種多様のクオリア(複合クオリア)のすべてを、できるだけ数少ない「元素クオリア」で説明したい、というのが「クオリア統一理論」の目標です。
 「元素クオリア」の個数nは、n=1の場合が最少ということになり、これを「Q1理論」と呼びます。もちろん、こういう理論を完成できる可能性は有りますが、やや不自然な気もします。コンピュータで情報を表す時、1進法ではなく2進法を用いる方がやり易いのと同じで、「元素クオリア」の個数nもn=2と考える「Q2理論」の方が情報をうまく表せそうに思われます。

 「元素クオリア」の個数はn=2とし、この2つをα、βとします。これらはどんな性質を持つと考えるべきでしょうか? まず、αとβとは異なることが絶対必要です。同じだったら区別する意味が無くなりますので。
   αに絶対必要な性質 … αはαであって、βではない。
   βに絶対必要な性質 … βはβであって、αではない。
これら2つはどうしても必要な性質ですが、できればそれ以上の性質を、αとβに与えたくありません。もし、αやβにそれ以上の性質を与えてしまうと、「なぜαやβはそういう性質を持つのか?」という疑問が生じ、「なぜ?と尋ねても答は無い。なぜかそうだ、と定めてしまうのだ」という答しかできなくなってしまうからです。最も根本的なところで、クオリアの謎を隠蔽してしまいそうです。
 2つの「元素クオリア」α、βが持つ性質はこれだけということにし、それ以外の複合クオリアの性質のすべては、αとβの組み合わせ・絡み合いによって発生すると考えるのが、最も理想的な「Q2理論」だと思われます。

 「粘土」というたった1種類の物質だけで、人間、動物、家、樹木、乗り物、…などの形を作ることができます。これを、「粘土」1種類だけ、と考えることは可能です。しかし、よく考えてみると、3次元空間内において「粘土」が存在している場所を1、「粘土」が存在していない場所を0と見なせば、0と1とを3次元空間内にうまく配置することで、様々な形を作り出している、と考えることもできます。こう考えると、「粘土有(1)」と「粘土無(0)」の2種類で、様々な物体の形を構成したことになります。
 βの持つ性質は「αではない」という性質だけですから、これはαの否定である~αと同じものです。「Q1理論」の立場を取り、「元素クオリア」の個数はn=1でαだけとし、ただしその否定である~αもクオリアと見なす、とすれば、上に書いた「Q2理論」と同じものになります。

 かつて物質科学が未熟だった頃、「火」「水」「木」「金」「土」などが物質世界を構成している元素だと考えられて来ました。この頃は、物質の構造分析が未熟だったため、本当に「火」「水」「木」「金」「土」の5つを元素と見なすべきなのかどうか?、これら以外にも元素は存在するのかどうか?、これら以外にも存在するとしたらどういう元素が存在するのか?、…といった謎には何も答えられませんでした。
 ところが今はどうでしょう? 物質は分子でできており、分子は原子でできており、原子は素粒子でできている事実が解明されました。その結果、物質世界の原子と呼べるのは、H(水素)、He(ヘリウム)、Li(リチウム)、Be(ベリリウム)、B(ホウ素)、C(炭素)、N(窒素)、O(酸素)、F(フッ素)、Ne(ネオン)、…であり、原子番号1番、2番、3番、…と軽い原子から順に並べられるものであり、自然界に存在する原子で一番重いのは原子番号92番のU(ウラン)である事が解りました。さらに人工的に原子番号93番、94番、95番、…の原子を作り出すことにも成功しています。素粒子は多種類存在し、それらを完全に統一する理論は未完成ですが、もしそれが成功すれば、すべての物質はたった1種類の究極の素粒子(これが本当の意味での「元素」)で構成されていた事が判明すると期待されます。

 クオリアも全く同じ状況だと思われます。今はまだ、クオリアの構造が未解明なので、人間が感じる五感である「色・形」「音」「匂い」「味」「手触り」が、取り敢えずクオリアにおける元素ではないか?、と考えたくなります。そして、本当にこれら5つを元素と見なすべきなのかどうか?、これら以外にも元素は存在するのかどうか?、これら以外にも存在するとしたらどういう元素が存在するのか?、…といった謎に、科学は何も答えられません。
 しかし、クオリアの構造分析が十分に研究され、「色・形」「音」「匂い」「味」「手触り」の5つも、実はたった1種類の「元素クオリア」が複雑に絡み合ったものだったとして、その構造が完全に解明されたとしたらどうでしょう? 物質世界の原子の種類は、原子番号1番、2番、3番、…と番号が付けられるものであり、これら以外には存在しない事実が解明されました。これと同様、クオリア原子の方も原子番号1番、2番、3番、…の原子クオリアQ1、Q2、Q3、…と番号が付けられ、これら以外には存在し得ない事実が解明されるかもしれません。「色」はQ12、「音」はQ35、コウモリのクオリアはQ78だった、といった事も明らかになるでしょう。「クオリア統一理論」では、当然このように考えることになります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/17 0:33
SumioBaba 
            クオリアを構造に還元できるか?
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.93】』からの引用です。)


 この「クオリア統一理論」は、哲学的に考えて、極めて大胆不敵な挑戦と言えます。なぜならそもそも「クオリア」という言葉自体が、物理的構造や数学的構造に還元できそうにない「質」(感覚質)という意味だからです。

 例えば、「赤」を「001」に、「青」を「010」に、「黄」を「100」に対応させたとしましょう。「このように対応させよう」と約束すれば、それなりに数学的構造と対応付けが可能です。しかし同様なことが、別のクオリアでも可能です。「色」でなく今度は「味」を考え、「甘」を「001」に、「辛」を「010」に、「酸」を「100」に対応させたとしましょう。これはこれで、立派に対応付けが可能と思われます。従って、何の約束もしていない場合、「001」が「赤」に対応するのか「甘」に対応するのかは、不明ということになります。つまり、こういう疑問です。
   クオリアの性質そのものはあくまで「質」であって「構造」では
   ないため、約束によって物理的構造や数学的構造に対応付けする
   ことは可能であっても、どのクオリアがどの「構造」に対応せね
   ばならないという論理的必然性は何も無いのではないか?

 別の例を挙げるなら、図形の形を数学的構造と見なし、正三角形、正方形、円の3つを書いたとしましょう。「どれが何色か、形によって自ずと決まる」とは思えません。正三角形も、正方形も、円も、様々な色で描くことができます。形が決まったからといって、色は何も決まらない訳です。つまり、「色」「味」「匂い」のようなクオリアを物理的構造や数学的構造に還元することは、言い換えると、このクオリアは必然的にこの構造に対応するという論理的必然性を解明するのは、不可能に思えてしまいます。これが「心・脳問題」を、途方もなく難しい問題にしています。
   なぜ、脳Bの様々な物理的構造Ba、Bb、Bc、…に、心Mの様々な
   クオリアを持つ心理状態Ma、Mb、Mc、…が随伴するのか? 別の対
   応関係では、なぜダメなのか? あるいは、脳Bの物理的構造Ba、
   Bb、Bc、…だけが存在し、心Mの心理状態Ma、Mb、Mc、…など何
   も随伴しない、ということは有り得ないのか?

 にも拘わらず、クオリアを構造に還元できる可能性は、まだ残っていると思います。【No.91】【No.92】に書いた「錬金術」と「元素の周期表」がまさにそれです。「鉄、鉛、錫の3つを適当な比率で混ぜることで、金を作り出せ」という問題は、確かに化学のレベルでは不可能です。しかし、原子核の分裂・融合まで利用して良いのであれば、鉄、鉛、錫の原子を陽子、中性子、電子という素粒子にまで分解して再構成することで、金の原子を作り出すことが可能です。
 原子にも構造が存在することがまだ知られていなかった時代、鉄、鉛、錫の原子はそれ以上分割不可能な固まりであると見なされ、それらの「性質の違い」を「構造の違い」で説明できるとは、誰も考えなかったはずです。「なぜか鉄は錆び易い性質を持つ」という事実を黙って受け入れるだけで、「なぜ?」と問われても答えようが無かったでしょう。しかし、鉄、鉛、錫という原子にも構造が有ることが知られている現在、これらの原子の「性質の違い」を、原子の「構造の違い」で説明できるようになりました。

 先程、正三角形という形だけを特定しても、それを何色で塗るかは定まらず、赤、青、黄、…様々な色で塗れるため、「色」は「形」に還元できない?と考えました。しかし、厳密に言うとそうではありません。紙に描いた正三角形を赤で塗った場合と青で塗った場合と、どちらも正三角形という構造は同じに見えますが、紙の表面を詳しく調べてみると、赤の色素と青の色素とは、分子構造が異なります。「赤い正三角形」と「青い正三角形」とは、紙面上の物理的構造に差が有るはずなのです。逆に、紙に描かれている2つの正三角形の構造を、色素の分子構造まで完全に同じにしたら、その色も自ずと完全に一致し、「赤」と「青」という「質」(クオリア)の違いを生じさせることはできません。「赤」と「青」という「質」(クオリア)の違いも、よく考えてみると「構造」の差に原因が在った訳です。

 我々は、「色」「味」「匂い」などのクオリアがどんな「構造」を持つのかを殆ど知らないため、これらの違いを「構造」に還元できない「質」の違いだと思い込んでいるだけかもしれません。もっとクオリアの「構造」を知れば、より少ない種類の「元素クオリア」の組み合わせで、「色・形」「音」「匂い」「味」「手触り」の五感等すべてを、それらの「構造」の違いであるとして説明できる可能性は、十分に有ると思われます。
   科学的解明とは、「質」の違いを「構造」の違いで説明して見せる
   ことである。
と言えるかもしれません。「質」の違いを認識しているだけでは、まだその原因は不明です。「質」の違いを「構造」の違いで説明できた時に始めて、その原因を知ったことになります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/19 8:15
SumioBaba 
           【究極原理】の3つの選択肢
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.96】』からの引用です。)


 「SB量子神学」では、
               【究極原理】
   人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。
を第一原理に定めます。具体的には量子力学の多世界解釈を応用し、トートロジーではないどんな「○○○」に対しても、「○○○である」と「○○○でない」の両方が実現されていると想定します。その上で次の(1)(2)(※)を考え、「なぜ○○○なのか?」という謎をトートロジーに解消してしまいます。
   「○○○は真」だと認識する視点に立てば、
              「○○○は真」だと認識する。  …(1)
   「○○○は偽」だと認識する視点に立てば、
              「○○○は偽」だと認識する。  …(2)
そして、
   「「○○○は真」だと認識する視点」と「「○○○は偽」だと認識
   する視点」の両方が、必ず存在する。          …(※)
こう考えることにより、「なぜ「○○○は真」なのか?」と「なぜ「○○○は偽」なのか?」の両方が、ともにトートロジーに解消され、謎は何も無かったことになります。

 仮に、「○○○」自体はトートロジーでないにも関わらず、「「○○○は真」だと認識する視点」だけが存在し、「「○○○は偽」だと認識する視点」の方は存在しない、と仮定してみましょう。この時、
   「○○○」はすべての視点において真である「絶対的真理」。
となり得ますが、逆に、
   なぜ「○○○」は、トートロジーでもないのに、「○○○は真」
   の方だけが選ばれて実現し、「○○○は偽」の方は選ばれなかっ
   たのか?                     …≪謎≫
という困った謎が発生します。「○○○は真」とは異なる命題Pを用いて「それはPだからだ」と説明しても、「なぜPなのか?」という謎が残ります。また別の命題Qを用いて「それはQだからだ」と説明しても、「なぜQなのか?」という謎が残ります。…以下同様、このような説明は無限後退してしまい、完全な答は永久に得られません。

 それゆえ、「「○○○は真」だと認識する視点」と「「○○○は偽」だと認識する視点」の両方が存在していると考えます。そうすると≪謎≫は事実誤認だったこととなって消滅し、答える必要が無くなります。その上で(1)(2)(※)の説明をすれば、(1)も(2)もトートロジーであり、この謎は完全に消滅します。本当の意味で謎を完全解明する唯一の方法は、その謎が実はトートロジーに他ならないと示すことです。
   視野が狭くてついつい謎が存在すると思っていたが、よく考えてみ
   たら単なるトートロジーで、謎は何も無かった。
と理解させるのが、謎の完全解決です。難解な謎を、より解り易い命題P、命題Q、命題R、…で置き換えて見せることで、その謎の意味をより深く理解できるのは確かだし、多数の謎をたった1つの謎にまとめることも可能(それをやっているのが「科学」)ですが、トートロジーに解消しなければ無限後退してしまい、完全な解決には決して至れません(それが「科学」の限界)。

 そこで問題は、「○○○」にこの【究極原理】自体を代入するとどうなるか、という点です。実際に代入してみます。
   「【究極原理】は真」だと認識する視点に立てば、
          「【究極原理】は真」だと認識する。  …<1>
   「【究極原理】は偽」だと認識する視点に立てば、
          「【究極原理】は偽」だと認識する。  …<2>
そして、
   「「【究極原理】は真」だと認識する視点」と「「【究極原理】は
   偽」だと認識する視点」の両方が必ず存在する。    …<※>
<1>は【究極原理】を真だと認識する場合の話なので、特に問題は有りません。しかし<2>と<※>の方は、【究極原理】を偽だと認識する視点が存在し得るかのように扱っています。【究極原理】は証明無しに「公理」の如く真だと前提したはずなのに、それが真でも偽でも有り得ると見なすのは変(?)です。
 では、【究極原理】だけは例外で、どんな視点に立っても真となる「絶対的真理」であり、偽にはなり得ない、と見なすべきでしょうか? でも、トートロジーでない【究極原理】がなぜか真にだけなり偽にはならないとすると、「なぜ【究極原理】だけは「絶対的真理」なのか?」というトートロジーに解消できない謎が残ってしまいます。 それとも【究極原理】は、それ自体がトートロジーであり、<1><2><※>の処方箋でトートロジーに解消する必要が、そもそも無いのでしょうか?
 「○○○」に【究極原理】自身を代入するとどうなるか?という問題は、次の3つの選択肢のどれを選ぶべきか、という大問題を意味します。

                選択肢[1]
   【究極原理】はトートロジーではないが、これだけは例外的に「絶
   対的真理」だと見なし、どんな視点に立っても「【究極原理】は真」
   であり、「【究極原理】は偽」となる視点は無い、と考える。
   (この場合、「トートロジーでもない【究極原理】がなぜ「絶対的
   真理」なのか?」という謎は永久に隠蔽されるが、数学や論理学で
   定める「公理」も、それ自体の正しさは証明無しに仮定するのであ
   るから、それと同じだと見なして諦める。)

                選択肢[2]
   【究極原理】はトートロジーではないので、やはり「【究極原理】
   は真」だと認識する視点と「【究極原理】は偽」だと認識する視点
   の両方が有り得る、と考える。
   (この場合、「SB量子神学」と「クオリア統一理論」は「【究極原
   理】は真」だと前提した上での理論なので、「【究極原理】は偽」
   となる視点に立った時には通用しない理論になってしまう。)

                選択肢[3]
   【究極原理】自体がトートロジーである、と考える。
   (これだと【究極原理】は、問題なく「絶対的真理」になり得るが、
   今度は【究極原理】の方が「5は5である」のような無意味な命題
   になってしまう。)
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/20 20:46
SumioBaba 
            【究極原理】の弁証法
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.97】』からの引用です。)


 【N0.96】で【究極原理】=「人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。」に、以下の3つの選択肢があることを説明しました。それぞれについて解説してみます。

                選択肢[1]
   【究極原理】はトートロジーではないが、これだけは例外的に「絶
   対的真理」だと見なし、どんな視点に立っても「【究極原理】は真」
   であり、「【究極原理】は偽」となる視点は無い、と考える。
   (この場合、「トートロジーでもない【究極原理】がなぜ「絶対的
   真理」なのか?」という謎は永久に隠蔽されるが、数学や論理学で
   定める「公理」も、それ自体の正しさは証明無しに仮定するのであ
   るから、それと同じだと見なして諦める。)

 「SB量子神学」では、「神」は全知全能であり、あらゆる○○○について、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、のダブル・トートロジーを実現していると考えます。「○○○」=「【究極原理】は真」と置いた場合もそうです。だから、全知全能の「神」の視点では、選択肢[1]を採ることはできません。「【究極原理】だけは例外的に、トートロジーでないにも拘わらず「絶対的真理」だ」とは言えない訳です。
 とは言え、次のダブル・トートロジーは成立します。
   「【究極原理】は絶対的真理である」と認識する視点に立てば、
       「【究極原理】は絶対的真理である」と認識する。…(1)
   「【究極原理】は絶対的真理でない」と認識する視点に立てば、
       「【究極原理】は絶対的真理でない」と認識する。…(2)
つまり、(2)の方を無視し、(1)だけの狭い視点に立っている場合の話に限定して言えば、選択肢[1]は正しい訳です。
 全知全能の「神」は、すべての心M0、M1、M2、M3、…を体験しているので、(1)(2)のダブル・トートロジーが成立しています。しかし人間は、(1)と(2)のどちらか一方の視点にしか立てないし、しかもそれは「神」が全知全能でない体験をしている状態です。だから、(1)だけの狭い視点に立った選択肢[1]も、間違いではないのです。弁証法で言うなら、「正」+「反」=「合」における「正」の段階です。

                選択肢[2]
   【究極原理】はトートロジーではないので、やはり「【究極原理】
   は真」だと認識する視点と「【究極原理】は偽」だと認識する視点
   の両方が有り得る、と考える。
   (この場合、「SB量子神学」と「クオリア統一理論」は「【究極原
   理】は真」だと前提した上での理論なので、「【究極原理】は偽」
   となる視点に立った時には通用しない理論になってしまう。)

 これは(1)と(2)の両方を考慮した、より広い視点に立っています。(1)の視点に立てば「【究極原理】は真」ですが、(2)の視点に立てば「【究極原理】は偽」にも成り得ることに気付いた状況です。弁証法で言うと、「正」に加え「反」が生じた状況です。

                選択肢[3]
   【究極原理】自体がトートロジーである、と考える。
   (これだと【究極原理】は、問題なく「絶対的真理」になり得るが、
   今度は【究極原理】の方が「5は5である」のような無意味な命題
   になってしまう。)

 最後に、「正」と「反」の両方を認め、両方を含めて「合」にする部分がこれです。【究極原理】の内容はこうでした。
               【究極原理】
   人間が疑問を抱くすべての謎は、トートロジーに解消できる。
 そもそも「謎」とは何なのでしょうか? 自分の心M1が知覚・認識する世界W1において、「○○○」という事実が成立しているとします。もし「○○○」自体が「5は5である」のようなトートロジーであれば、それが成立するのは当然であり、「謎」だと見なされる必要さえ有りません。トートロジーではないのに、なぜか「「○○○」は真」が成立している場合にこそ、それは「謎」に成り得ます。つまり、「謎」の基本形はこうだと言えます。
   「謎」=
   「「○○○」はトートロジーではないのだから、「「○○○」は真」
   だけでなく、「「○○○」は偽」の方も有り得て良かったはず。そ
   れなのになぜ、「「○○○」は真」の方だけが選ばれて実現してい
   るのだろう?」
 そこでこの「謎」を消滅させるため、多世界解釈の立場に立ちます。自分の心M1は世界W1だけしか知覚・認識できないので、「「○○○」は真」の方だけが選ばれて実現しているかのように錯覚してしまいます。しかし本当は、心M2が知覚・認識する世界W2、心M3が知覚・認識する世界W3、心M4が知覚・認識する世界W4、…も存在しており、W2、W3、W4、…の中では「「○○○」は偽」の方も成立している、と考えるのでした。

 以上の考察から、「謎」を次のように定義できるでしょう。
   「謎」=
   「〔自分の心M1が知覚・認識する世界W1において、トートロジー
   ではない「○○○」という事実がなぜか成立している場合、M1は
   W1だけしか知覚・認識できないため、「「○○○」は真」と「「○
   ○○」は偽」の両方が有り得て良いはずなのに、なぜ「「○○○」
   は真」の方だけが選ばれて実現しているのだろう?と不思議に感じ
   る事(それが「謎」)であるが、実は自分の心M1が知覚・認識でき
   ない他の世界W2、W3、W4、…も存在していて、それらの中では「「○
   ○○」は偽」の方も実現していると考え、「○○○は真」だと認識
   する視点に立てば「○○○は真」だと認識する、「○○○は偽」だ
   と認識する視点に立てば「○○○は偽」だと認識する、そして、「「○
   ○○は真」だと認識する視点」と「「○○○は偽」だと認識する視
   点」の両方が必ず存在しているのだと理解することにより、〕必ず
   トートロジーに解消できる命題」
かなり長いので、〔 〕の部分を省略すると、「謎」の定義はこうなります。
   「謎」=「必ずトートロジーに解消できる命題」  …(*)
【究極原理】の方も、少し変形します。
             【究極原理】の変形
   「謎」は、必ずトートロジーに解消できる。
そしてこの「謎」に(*)を代入することで、さらに変形します。
            【究極原理】の変形の変形
   必ずトートロジーに解消できる命題は、必ずトートロジーに解消で
   きる。
 こう解釈することで、【究極原理】自体が実はトートロジーだったのだと見なすことが可能になります。しかもこの過程は、選択肢[1]、選択肢[2]、選択肢[3]の3つが、弁証法における「正」、「反」、「合」の関係にぴったり一致しているのが解ります。

 では【究極原理】は、「5は5である」のように内容の無い空虚な原理なのでしょうか? 「その通り」が答です。ただしそれは、全知全能の「神」の視点に立ったとき、謎はすべて消滅するので、それを説明すべき原理や法則も何1つ必要ではない、という意味になります。これこそまさに「空」です。人間の視点に立てば、原理や法則は重要な意味を持ちますので、混同しないように注意して下さい。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/3/27 10:25
SumioBaba 
            「クオリア統一理論」の3つの選択肢
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.98】』からの引用です。)


 「クオリア統一理論」とは、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の集合{M}すなわち「神」が、具体的にどんな心の状態集合なのかを解明する理論です。【究極原理】の場合と同様、この「クオリア統一理論」についても3つの選択肢が生じます。

                選択肢[1]
   「クオリア統一理論」はトートロジーではないが、これだけは例外
   的に「絶対的真理」だと見なし、どんな視点に立っても「「クオリ
   ア統一理論」は真」であり、「「クオリア統一理論」は偽」となる
   視点は無い、と考える。
   (この場合、「トートロジーでもない「クオリア統一理論」がなぜ
   「絶対的真理」なのか?」というメタ謎が生じる。すべての謎をト
   ートロジーに解消するのが「クオリア統一理論」の目標であるけれ
   ども、「クオリア統一理論」自体はトートロジーに解消できず、メ
   タ謎は永久に隠蔽されてしまう。しかし、数学や論理学で定める「公
   理」もまた、それを用いてすべての「定理」を証明できるにも拘わ
   らず、「公理」自体がなぜ真なのかという謎は永久に隠蔽されるの
   であり、それと同じだと考えて諦める。)

                選択肢[2]
   「クオリア統一理論」はトートロジーではないので、やはり、「「ク
   オリア統一理論」は真」だと認識する視点と「「クオリア統一理論」
   は偽」だと認識する視点の両方が有り得る、と考える。
   (この場合、視点の取り方によって、「クオリア統一理論」は真に
   も偽にも成り得る事を、「クオリア統一理論」自体が認めることに
   なる。)

                選択肢[3]
   「クオリア統一理論」自体がトートロジーである、と考える。
   (この場合にだけ「クオリア統一理論」は、問題なく「絶対的真理」
   になり得るが、同時にこれもまた「5は5である」のような中身の
   無い無意味な理論になってしまう。)

 ただし、「「クオリア統一理論」は、真か、偽か、トートロジーか?」という表現は、「「「クオリア統一理論」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の発生を説明できる」は、真か、偽か、トートロジーか?」を意味するものとします。

 3つの選択肢のうちどれか1つだけを客観的に正しいと考えるのは、「クオリア統一理論」の趣旨に反します。「クオリア統一理論」そして「SB量子神学」の趣旨に則って考えるなら、当然こうなるはずです。
   「選択肢[1]が正しい」と認識する視点に立つと、
                「選択肢[1]が正しい」と認識する。
   「選択肢[2]が正しい」と認識する視点に立つと、
                「選択肢[2]が正しい」と認識する。
   「選択肢[3]が正しい」と認識する視点に立つと、
                「選択肢[3]が正しい」と認識する。
実はこれもまた、どれか1つだけが正しいのではなく、どれもがそれぞれ正しいと見なせます。そしてこれら3つは、「クオリア統一理論」もまた弁証法に則り、「正」「反」「合」という形で成長し、完成して「合」に至ったとき、それはトートロジーに到達していることを意味します。

 数学の公理系に例えるとこんな感じです。ユークリッド幾何学においては、《命題》=「三角形の内角の和は180°である」がすべての三角形について成立します。1つの例外も無いという意味で、これは「絶対的真理」だと見なせます。「三角形の内角の和」と「180°」とは同語ではないので、《命題》はトートロジーではありません。しかし、なぜか「絶対的真理」らしいと認めざるを得ない状況です。これが選択肢[1]のレベル。
 ところが、非ユークリッド幾何学では《命題》は偽になります。つまり、どんな枠組の中で議論するかにより、《命題》は真にも偽にも成り得る「相対的真理」だったことが判ります。これが選択肢[2]のレベル。
 そこで、《超命題》を考えます。《超命題》=「《命題》が真になる幾何学では《命題》は真、《命題》が偽になる幾何学では《命題》は偽」です。すると、この《超命題》こそが本当の意味での「絶対的真理」になっています。なぜなら《超命題》はダブル・トートロジーなので、疑う余地が有りません。だだし、トートロジーである以上、この《超命題》は、全く中身の無い無意味な命題になってしまっています。これが選択肢[3]のレベル。

 実は「クオリア統一理論」に限らず、どんな科学理論もこの3段階をたどり、最終的にはトートロジーに至る、というのが「SB量子神学」の結論です。自分が住む世界という狭い範囲だけで考えているときは、トートロジーでない科学理論なのに、なぜか「絶対的真理」に見えます。これが選択肢[1]のレベル。そこで多世界解釈の立場に立ち、他の世界までを考慮すると、その科学理論は偽にもなり得ることが判明します。これが選択肢[2]のレベル。そこですべての世界を考慮すると、どんな科学理論も、「成立する」と認識する視点に立てば「成立する」、「成立しない」と認識する視点に立てば「成立しない」、のダブル・トートロジーが成立しているだけだった事が理解できます。これが選択肢[3]のレベル。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/4/2 7:26
SumioBaba 
            「クオリア統一理論」の弁証法
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.99】』からの引用です。)


 まずは第一の選択肢です。

                選択肢[1]
   「クオリア統一理論」はトートロジーではないが、これだけは例外
   的に「絶対的真理」だと見なし、どんな視点に立っても「「クオリ
   ア統一理論」は真」であり、「「クオリア統一理論」は偽」となる
   視点は無い、と考える。
   (この場合、「トートロジーでもない「クオリア統一理論」がなぜ
   「絶対的真理」なのか?」というメタ謎が生じる。すべての謎をト
   ートロジーに解消するのが「クオリア統一理論」の目標であるけれ
   ども、「クオリア統一理論」自体はトートロジーに解消できず、メ
   タ謎は永久に隠蔽されてしまう。しかし、数学や論理学で定める「公
   理」もまた、それを用いてすべての「定理」を証明できるにも拘わ
   らず、「公理」自体がなぜ真なのかという謎は永久に隠蔽されるの
   であり、それと同じだと考えて諦める。)

 「クオリア統一理論」が完成したと言えるためには、どういう内容が必要でしょうか? 「クオリア統一理論」では、存在し得るすべての状態の心M0、M1、M2、M3、…が実在すると考え、それを集合{M}で表しました。「元素クオリア」の種類と、それが多数絡み合って複雑な心を構成する時の規則が判明すれば、このM0、M1、M2、M3、…がどんなものなのか、完全に解明できると思われます。集合{M}の全要素を解明できた時、「クオリア統一理論」は完成した、と見なせるでしょう。この法則のことを「クオリア生成法則」と呼びます。「クオリア統一理論」の本質は、「クオリア生成法則」の定式だと言えます。

 自分の心M1が知覚・認識している世界W1において、【クオリア生成法則A】が成立しているとします。もしこれが存在し得る唯一の「クオリア生成法則」であれば、これ自体がトートロジーになり得ますが、恐らく他にも【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…が存在し得る中、なぜか【クオリア生成法則A】だけが選ばれている可能性が高いと思われます。
 なぜなら、我々の住む世界で成立している「物理法則」がそうだからです。もし相対性理論や量子力学がトートロジーであるなら、実験・観察などしなくても、論理的思考だけでこれらの「物理法則」が明らかになるはずですが、現実はそうではありません。ニュートン力学と相対性理論、ニュートン力学と量子力学のどちらが正しいかも、実験・観察によって初めて判明したのですから、「相対性理論が成立する」や「量子力学が成立する」は真にも偽にもなる可能性が有り、トートロジーでないことは明らかなようです。そして、心の機能と脳の機能とが対応しているため、「クオリア生成法則」と「物理法則」とは密接な関係を持っているはずです。

 それゆえ【クオリア生成法則A】は、トートロジーであるとは思えないのに、なぜか自分の心M1が住む世界W1の中では「絶対的真理」であるかのように見えるはずです。M1がW1だけについて研究する場合、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】ですから、「なぜ、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】はトートロジーでもないのに「絶対的真理」なのか?」というメタ謎が生じます。そして取り敢えず、「なぜかは知らないが、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】はトートロジーではないけれど、「絶対的真理」のようだ」と受け入れるしかありません。これが、選択肢[1]の状況です。

 次に第二の選択肢です。

                選択肢[2]
   「クオリア統一理論」はトートロジーではないので、やはり、「「ク
   オリア統一理論」は真」だと認識する視点と「「クオリア統一理論」
   は偽」だと認識する視点の両方が有り得る、と考える。
   (この場合、視点の取り方によって、「クオリア統一理論」は真に
   も偽にも成り得る事を、「クオリア統一理論」自体が認めることに
   なる。)

 自分の心M1が住む世界W1だけでなく、心M2が住む世界W2、心M3が住む世界W3、…をも考慮し始めると、話が変わって来ます。自分の心M1が住む世界W1に限定すれば、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】はトートロジーではないにも拘わらず、「絶対的真理」のようでした。しかし、多世界解釈の立場に立ち、他の世界W2、W3、…を考慮すると、そこでは別の【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…が成立していて、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】は偽かもしれない、と考えねばならなくなります。これが、選択肢[2]の状況です。

 なお、ここでも【自然法則の間引発生説】が働いている、と考えます。「神」は「クオリア生成法則」など何も作っていません。特定の「クオリア生成法則」だけを作ってしまうと、「神」は全知全能でなくなってしまうからです。
   特定の「クオリア生成法則」に従っても良いし、従わなくても良い
   から、存在できる心はすべて存在してごらん。特定の「クオリア生
   成法則」に従うことなど、何も要求していないよ。
というのが、全知全能の「神」の態度です。
 ただし、特定の「クオリア生成法則」に従っていない心Mxは自己否定的であり、「Mxが存在する」を仮定すると「Mxが存在する」と「-Mxが存在する」の両方が平等に導かれ、Mx-Mx=0で消滅してしまうと考えます。存在し得るMxは自己肯定的なものだけであり、「Mxが存在する」を仮定すると「Mxが存在する」だけが導かれるものです。その条件を与えているのが、【クオリア生成法則A】、【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…です。つまりこれらの法則もまた、「神」が作ったのではなく、「間引」によって自然発生しているのです。

 最後に第三の選択肢です。

                選択肢[3]
   「クオリア統一理論」自体がトートロジーである、と考える。
   (この場合にだけ「クオリア統一理論」は、問題なく「絶対的真理」
   になり得るが、同時にこれもまた「5は5である」のような中身の
   無い無意味な理論になってしまう。)

 多世界解釈の立場に立ち、自分の心M1が住む世界W1だけでなく、心M2が住む世界W2、心M3が住む世界W3、…をも考慮し、W1で成立している【クオリア生成法則A】だけでなく、他の世界W2、W3、…で成立していると予想される【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…をも考慮し、これらすべてを論理和という形で合成した【クオリア生成法則*】を定式します。選択肢[1]や選択肢[2]においては、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】でしたが、これは視野が狭かったからであり、選択肢[3]では定義そのものが拡張され、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則*】に変わることになります。この【クオリア生成法則*】は、すべての心M0、M1、M2、M3、…の発生を説明できるように拡張された法則ですから、その定義はこうです。
   【クオリア生成法則*】=「すべての心M0、M1、M2、M3、…の発生を
   説明できる法則」                   …(※)
それゆえ、
   「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則*】は、すべての心M0、
   M1、M2、M3、…の発生を説明できるか?
という疑問は、(※)を代入することにより、
   すべての心M0、M1、M2、M3、…の発生を説明できる法則は、すべて
   の心M0、M1、M2、M3、…の発生を説明できるか?
というトートロジーに到達しているのが解ります。これが、選択肢[3]の状況です。

 自分の心M1が住む世界W1の中では、様々な【クオリア生成法則A】、【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…のうち、特定の【クオリア生成法則A】だけが選ばれて成立しています。それゆえ「なぜ【クオリア生成法則A】だけが選ばれて成立しているのか?」「【クオリア生成法則A】だけで生成される心の集合{Ma}(もちろん{M}の部分集合)はどんなものか?」等の「謎」を、M1は感じています。それに答えてくれるのが、「クオリア統一理論」です。
 ではこの「謎」は、どうして発生したのでしょう? 実は、「神」{M}の中から自分の心M1を選び出す時に、この「謎」が発生しているのです。だから、M1の視点に立てば確かに「謎」は存在していますが、「神」{M}の視点に立てば、この「謎」は無くなります。そして「神」{M}の視点に戻った時、「あの「謎」は、実はトートロジーだったのだ」と認識する訳です。そして「神」{M}にとって、「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則*】はトートロジーであり、全く無意味な理論です。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/4/9 9:09
SumioBaba 
            科学理論の究極はトートロジー
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.100】』からの引用です。)


 「クオリア統一理論」は、究極まで完成した時にはトートロジーに到達する、と書きました。トートロジーとは「同語反復的恒真命題」のことです。それは、必然的に真だと見なせる「絶対的真理」ではありますが、例を挙げると「5は5である」のように、当たり前の事を言っていて中身が何も無く、何一つ情報を提供していないことを意味します。そんな理論に何の価値が有るのでしょう?

 「クオリア統一理論」では、存在し得る心の状態M0、M1、M2、M3、…すべてが実在していると考え、この集合{M}を「神」であると解釈します。1人の人間である現在の自分の心は、これらの要素の中のどれか1つですから、それをM1としましょう。M1は自分が知覚・認識する世界W1の状態の中に、特定の【物理法則A】、特定の【脳・心対応法則A】、特定の【クオリア生成法則A】、…などが成立しているのを知覚・認識し、「なぜ、他の法則ではなく、この法則が成立しているのか?」「この法則は具体的にどんな法則か?」という「謎」の存在を感じます。この「謎」はすべて、{M}からM1を選び出す時に生じたものであり、「神」の視点に立てば、もともと「謎」は存在していない訳です。
 なぜかM1が住む世界W1では【クオリア生成法則A】だけが選び出されて成立しており、この【クオリア生成法則A】は、特定の情報を持っています。要するに、全集合{M}から、【クオリア生成法則A】で作り出せる部分集合{Ma}の要素を選び出す時には情報が必要であり、【クオリア生成法則A】がその情報を持っている訳ですが、それは「神」{M}から自分の心M1を選び出す時に発生したものです。そして、自分の心M1が住む世界W1の中では、この「クオリア統一理論」=【クオリア生成法則A】は立派に役に立ちます。
 他方、すべての【クオリア生成法則A】、【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…を論理和で合成した【クオリア生成法則*】が完成できた時、【クオリア生成法則*】は全集合{M}から全集合{M}自身を選び出すので、【クオリア生成法則*】は何も情報を持たないトートロジーに到達しており、この時M1の視点を離れ、「神」{M}の視点に立つことになるのです。そして、【クオリア生成法則*】の定式こそが、「クオリア統一理論」の完成された姿です。

 こう言うこともできます。【クオリア生成法則A】、【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…のどれもが、
   「成立している」と認識する視点に立てば「成立している」。
   「成立していない」と認識する視点に立てば「成立していない」。
というダブル・トートロジーを満たしているだけであり、そこに謎など何も無かったことが解るのです。それが「クオリア統一理論」の最終的な姿です。
 要するに科学理論とは、中途半端な段階では立派に情報を持っていますが、究極まで進歩すると情報を失い、最終的にはトートロジーに到達する運命を持つものなのです。科学なんてものは、人間が自分の心M1の住む世界W1を記述する場合には有効ですが、全知全能の「神」にとっては何の意味も持たないトートロジーなのです。これこそまさに「空」だと言えます。

 物理法則もそうです。現在の物理学は、我々が住む世界W1で成立している物理法則L1を研究解明している段階です。仮に物理法則L1が完全解明されたとしても、謎はまだ残っています。「なぜ他の物理法則L2、L3、L4、…ではなく、このL1なのだろう?」です。
 これを解明するためには、我々が住む世界W1以外にも、異なる物理法則L2、L3、L4、…が成立している世界W2、W3、W4、…が存在しているのかもしれないと想定し、「存在し得るすべての物理法則L1、L2、L3、L4、…を要素とする集合{L}はどんなものか?」を解明する必要が有ります。
 そしてこれが解明できた時、すべての謎が消滅します。どの物理法則Li(i=1、2、3、4、…)も、以下のダブル・トートロジーが成立していただけです。
   「Liが成立している」と認識する視点に立てば
                 「Liが成立している」と認識する。
   「Liは成立していない」と認識する視点に立てば、
                「Liは成立していない」と認識する。
物理法則もまた、完全に解明された時にはトートロジーに到達する訳です。

 これは、「SB量子神学」固有の結論です。もし「SB量子神学」を否定し、自分の住む世界W1で成立している物理法則L1こそが、唯一の絶対的物理法則だと考えてしまうと、汚い謎が残ってしまいます。…「なぜ他の物理法則L2、L3、L4、…ではなく、この物理法則L1だけが選ばれたのか?」「そもそもなぜ、物理法則なんてものに縛られなければならないのか?」…これらの謎に対し、「そんなの知るもんか、なぜかそうだからそうなのだ」としか答えられなくなってしまいます。あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している全知全能の「神」の存在を否定すると、最後まで解けない謎が残ってしまうのです。
 自分の心が認識する時間の流れを、…→自分(t4)→自分(t5)→自分(t6)→…と書くと、自分(t5)は自分が住む世界で成立していると認識する物理法則L1に従い、自分の過去を自分(t4)であり、自分の未来を自分(t6)であると推測しているだけです。つまり、「物理法則L1が成立している」と認識する視点に立てば「物理法則L1が成立している」と認識する、というトートロジーが成立しているだけです。これが「SB量子神学」における物理法則の捉え方です。
 「神」は全知全能なので、真の時間の流れをX→自分(t5)→Yと書くと、本当はXもYも存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…のどれでもある、と解釈できます。「神」の視点に立つと、どの物理法則L1、L2、L3、…も、「成立している」でもあれば「成立していない」でもあります。

 「神」の視点に立てば、{M}の全要素が他ならぬM0、M1、M2、M3、…であることも、トートロジーだと認識するはずです。だから、「なぜ{M}の全要素は、これらM0、M1、M2、M3、…なのだろう?、他のM0’、M1’、M2’、M3’、…ではなぜダメなのか?」という「謎」を、「神」は感じていません。しかもそれは、「神」が「クオリア統一理論」という特定の理論を作って{M}の全要素をM0、M1、M2、M3、…に限定したからではありません。
 全知全能の「神」は特定の「クオリア統一理論」など何も作っておらず、「何でも有り」の条件ですべての心を作り出しています。言わば、存在し得るすべての【クオリア生成法則A】、【クオリア生成法則B】、【クオリア生成法則C】、…を用いて、存在し得るすべての心を作り出しています。そしてその場合、{M}の全要素は一意的にこれらM0、M1、M2、M3、…でしか有り得ない、という意味でトートロジーなのです。


 「SB量子神学」についての詳しい説明は、AmazonのKDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』シリーズの、《基礎論》(ASIN:B019FR2XBC)、《詳細論》(ASIN:B019QNGL4K)、《メールマガジン1~30》(ASIN:B01AP012EU)、《メールマガジン31~60》(ASIN:B01AXG6LQW)、《メールマガジン61~90》(ASIN:B01C6JGM90)の中に有ります。
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SumioBaba 
            「神」はヒルベルト空間に住む
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.64】』からの引用です。)

    要約
 存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}は、無限次元ヒルベルト空間内で、存在し得るすべての向きを持った長さ1の単位ベクトルV0、V1、V2、V3、…を要素とする集合{V}と一対一対応します。MiにとってMjの存在確率は|<Mi|Mj>|^2で与えられ、ViとVjとの内積の二乗に対応します。これを「「神」はヒルベルト空間に住む」と表現できます。


 最大でN=5ビットの情報を持つ心の集合を考えます。Mi=「vwxyz」が一般形です。個々のv、w、x、y、zが独立して「0」と「1」を取り得るとすると、2進法で表した「00000」、「00001」、「00010」、…、「11111」という2^5=32種類の心が存在し得ることになります。これらを「基底」と呼び、m0、m1、m2、…、m31で表します。そして、32次元空間を考えます。この空間は、x0軸、x1軸、x2軸、…、x31軸という32本の互いに直交する座標軸で構成されており、それぞれの軸方向の長さ1の単位ベクトルこそが、m0、m1、m2、…、m31であると見なします。

 mi(i=0、1、2、…、31)はどれも長さ1であり、「miにとってmiの存在確率は1」であることを意味し、これを<mi|mi>=1と表現します。一方、これら32個の「基底」のうち、異なる2つをmi、mjとすると(i≠j)、miとmjとは必ず第1~5ビットのどれかにおいて、一方は「0」、他方は「1」という矛盾した情報を持っています(第1~5ビットのすべてに矛盾が無ければmi=mjになってしまう)。1つでも矛盾した情報を持っていれば、miの視点に立つ時、同時にmjの視点に立つことはできません。つまり、「miにとってmjの存在確率は0」であり、これを<mi|mj>=0と表現します。i≠jのときmiとmjとは直交しているのだから、ベクトルmiとベクトルmjとの内積<mi|mj>が0だと理解できます。この2つをまとめてこう表記します。
             【直交規格化条件】
   <mi|mj>=δij〔i=jのとき<mi|mj>=1、i≠jのとき<mi|mj>=0〕
δijは「クロネッカーのデルタ」と呼ばれる記号です。

 では、存在し得るすべての心Mxの一般形はどう表されるでしょうか。答は、これら32個の「基底」mi(i=0、1、2、…、31)に特定の重みai(i=0、1、2、…、31)を付けて線形に重ね合わせたものになります。aiは複素数にまで拡張できますが、ここでは実数としておきます。
   Mx=a0・m0+a1・m1+a2・m2+ … +a31・m31
      =Σ(ai・mi) 〔i=0、1、2、…、31について和を取る〕
重みa0、a1、a2、…、a31は独立して任意の値を取れます。32次元空間内の任意の点をPとし、原点をO=(0、0、0、…、0)とし、Pの座標をP=(a0、a1、a2、…、a31)とすると、MxこそがベクトルOPに対応します。つまり、存在し得る任意の心Mxは、この32次元空間内の点Pに対応するし、逆にこの32次元空間内の任意の点Pは、特定の心Mxに対応します。「神」を「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合」で定義するなら、「神」を「32次元空間内のすべての点の集合」と定義しても良い訳です。

 ただ、Mxは特定の心の状態ですから、「MxにとってMxの存在確率は1」すなわち<Mx|Mx>=1は満たしておくべきです。Mx=a0・m0+a1・m1+a2・m2+ … +a31・m31をそのまま使って<Mx|Mx>を計算してみると、こうなります。
   <Mx|Mx>=(<a0・m0|+<a1・m1|+<a2・m2|+ … +<a31・m31|)
      (|a0・m0>+|a1・m1>+|a2・m2>+ … +|a31・m31>)
      =Σ〔i〕Σ〔j〕(ai・aj<mi|mj>)
つまり、ai・aj<mi|mj>を、i=0、1、2、…、31について、かつ、j=0、1、2、…、31について、32^2=1024個すべてを足すことになりますが、i≠jの場合は<mi|mj>=0で無視できるし、i=jのときだけ<mi|mj>=1なので、
      =Σ〔i〕(|ai|^2)
      =|a0|^2+|a1|^2+|a2|^2+ … +|a31|^2
となります。これを1と定めれば良いことになります。
   |a0|^2+|a1|^2+|a2|^2+ … +|a31|^2=1
この条件を満たせば、<Mx|Mx>=1が保証されます。これをMxの「規格化」と呼びます。

 具体例として、2つの「基底」であるm9=「01001」とm25=「11001」とを半々の重みで重ね合わせた心をMxとしてみます。Mx=a9・m9+a25・m25とおき、a9=a25とし、「規格化」の条件|a9|^2+|a25|^2=1を要求すると、解の1つはa9=a25=1/√2になります。つまり、
   Mx=(1/√2)m9+(1/√2)m25
そこで、
   「?」=(1/√2)「0」+(1/√2)「1」
と定義すると(「?」の一般的定義は「?」=a「0」+b「1」、|a|^2+|b|^2=1、aとbは任意の複素数)、
   Mx=(1/√2)「01001」+(1/√2)「11001」
    =「?1001」
と表現されます。
   <Mx|m9>=<(1/√2)m9+(1/√2)m25|m9>
       =(1/√2)<m9|m9>+(1/√2)<m25|m9>
       =(1/√2)×1+(1/√2)×0
       =1/√2
   <Mx|m25>=<(1/√2)m9+(1/√2)m25|m25>
       =(1/√2)<m9|m25>+(1/√2)<m25|m25>
       =(1/√2)×0+(1/√2)×1
       =1/√2
となります。「Mxの視点に確率1で立つということは、Mxの視点に確率1で立つ、かつ、m9の視点に確率1/2で立つ、かつ、m25の視点に確率1/2で立つ、ということである」を意味します。
 m9とm25とは直交していました。だから<m9|m25>=<m25|m9>=0でした。m9とm9、m25とm25とはもちろん平行であり、だから<m9|m9>=<m25|m25>=1でした。Mxとm9、Mxとm25とは45度の角度に傾いており、だから<Mx|m9>=<Mx|m25>=1/√2でした。2つの心MiとMjとが32次元空間内で相対的に角度θで傾いているとき、<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=cosθの関係が有ります。そして、「Miの視点に確率1で立っているとき、同時にMjの視点にも確率<Mi|Mj>^2=(cosθ)^2で立っている」あるいは「MiにとってMjの存在確率は<Mi|Mj>^2=(cosθ)^2である」と言えます。

 なお、今の話ではN=5だったので2^N=2^5=32次元空間でしたが、N→∞に拡張すれば2^N=2^∞=∞次元空間になります。重みa0、a1、a2、…、a31を複素数にまで拡張する時は、x0軸、x1軸、x2軸、…、x31軸を、実軸x0rと虚軸x0i、実軸x1rと虚軸x1i、実軸x2rと虚軸x2i、…、実軸x31rと虚軸x31iに拡張します。
 要するに、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…は、無限次元のヒルベルト空間内において存在し得るすべての向きを持った長さ1の単位ベクトルV0、V1、V2、V3、…に例えられ、特定の心Miにとって他の心Mjが「存在する」か「存在する」+「存在しない」か「存在しない」かという違いは、特定のベクトルViにとって他のベクトルVjが「平行」か「45度」か「垂直」かという違いに等しい、ということです。
 「神」とは、存在し得るすべての心の状態を体験する、という点に関して全知全能である主体だと見なせます。Mx=「vwxyz…………」という、最大でN=∞ビットの情報を持ち得る心において、すべてのビットが「0」、「1」、「?」(=a「0」+b「1」)という3つの値を取る3^N=3^∞種類の心すべてをコレクションにし、体験しているのが「神」です。これを、「「神」はヒルベルト空間に住む」と表現できます。


 この「「神」はヒルベルト空間に住む」は、AmazonのKDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』シリーズの、《メールマガジン61~90》(ASIN:B01C6JGM90)の中に有ります。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/4/21 20:45
SumioBaba 
            大乗仏教の「真如」【1】~【40】


 なぜ人間には、「幸福」だけでなく「不幸」も起こり得るのでしょう? もし全知全能の「神」が実在するのなら、病気や怪我で苦しんでいる人々を助けてくれれば良いのに、なぜ「神」は何もしてくれないのでしょう? こういった疑問から、「無神論」に陥った人も多いと思われます。

 答を一言で言うと、《人間の幸福》と《神の幸福》とが一致していないのが原因です。人間は、自分がたった1つの人生だけを体験しているのだと思い込んでいます。だから、「幸福」は体験したいけれど、「不幸」は体験したくありません。《人間の幸福》=「「幸福」だけを体験し、「不幸」は体験しないこと」です。一方、全知全能の「神」は無数の体験が可能なので、「幸福」な体験だけでなく、「不幸」な体験もしてみたいのです。つまり、《神の幸福》=「「幸福」も「不幸」も体験すること」となります。
 人間が望む「幸福」を「幸福」(正)、人間が望まない「不幸」を「不幸」(反)と書くなら、
   《人間の幸福》=「幸福」(正)
です。一方、《神の幸福》を「幸福」(合)と書くなら、これは「幸福」(正)と「不幸」(反)とを併せたものであり、
   《神の幸福》=「幸福」(合)=「幸福」(正)+「不幸」(反)
となります。ここでもまた、弁証法的構造が現れます。

 人間は、自分の人生を一度きりだと思い込んでいるので、「「幸福」だけを体験すること」と「「不幸」だけを体験すること」の2つのうち、「「幸福」だけを体験すること」の方を選びたいと考えます。しかし、もし自分が、「「幸福」だけを体験すること」と「「不幸」だけを体験すること」と「「幸福」と「不幸」の両方を体験すること」の3つの中から、どれか1つを選べるとしたらどうでしょう? 一番楽しいのは「「幸福」と「不幸」の両方を体験すること」ではないでしょうか? 

 1人の人間としての自分は今、「不幸」を体験しているとします。もしここで、自分が体験しているのは「不幸」だけであり、「幸福」は体験していないとすると、「神」を呪いたいほどの不満が生じ、苦しみます。そこで、本当の自分は全知全能の「神」なのであり、「幸福」と「不幸」の両方を体験しているのだ、と考えます。すると自分は、3つの選択肢の中から最も楽しいものを選んでいることとなり、不満は消滅します。

 人間の心は、自分が住む世界の中で「時間の流れ」を実感し、「物理法則」に縛られながらも「自由意志」で最善と思われる行動を選択しつつ、できるだけ自分を幸福にし、かつ、隣人たちをも幸福にしたい、というゲームをしています。これが「人間視点」です。このゲームを楽しむのが人間の存在目的なので、ゲームが楽しい人は思いっきり楽しむべきです。
 ただ、1人の人間として耐えられないほどの苦しみに遭遇した時は、「人間視点」を離れ、「神視点」を想像すれば良いのです。「神視点」に立てば、「時間の流れ」も「物理法則」も「自由意志」も意味を無くします。そして全知全能の「神」は、幸福な心も不幸な心も含め、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…をコレクションにして楽しんでいるだけ、となります。


 大乗仏教の「真如」【1】~【27】を修正・加筆し、【1】~【40】をAmazonのKDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)《真如論》』(ASIN:B01EGRQXC6)にしました。もし良かったら読んでみて下さい。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/4/30 7:22
SumioBaba 
        人生の悩み・苦しみ・悲しみを完全消滅させる方法
(メールマガジン『「神」を完全に解明しました!!【No.15】』からの引用です。)


 「SB量子神学」の最大のメリットは、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみを、完全に超越できる点です。
 自分が生まれた時刻をt0、現在を時刻tkとし、自分が死ぬ時刻をtzとします。我々は「時間の流れ」と「自己同一性」という錯覚により、自分の人生を、
   自分(t0)→自分(t1)→自分(t2)→自分(t3)→
         … →自分(tk)→ …
       →自分(tx)→自分(ty)→自分(tz)       …(※)
という領域だけだと実感しています。しかも、現在の自分にとって、これから体験できる領域は、
   自分(tk)→ … →自分(tx)→自分(ty)→自分(tz)    …(*)
の部分だけだと思い込んでいます。人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみは、すべてこの錯覚から生じます。
 本当はそうではなく、あらゆる心の状態集合{M}が実在し、真の自分は「神」なのであって、すべての要素M0、M1、M2、M3、…の視点に平等に立っているのだと理解すれば、人間個人としての悩み・苦しみ・悲しみから完全に解放されます。具体例をいくつか挙げて説明しましょう。

                【1】
            他人が妬ましい。

 世の中には、自分よりも恵まれている人がたくさんいるように思われます。自分は貧乏なのに、他人は金持ち。自分は背が低いのに、他人は背が高い。自分はオヤジ顔なのに、他人はハンサム。自分は中小企業の平社員なのに、他人は大企業の社長。自分は運動音痴なのに、他人はオリンピックで金メダル。自分は勉強は苦手なのに、他人はノーベル賞。自分は病気なのに、他人は健康。…等々。「自分は自分であり、決して他人にはなれない」と錯覚しているから、他人を妬ましく感じてしまうのです。
 「自分は自分であるだけでなく、同時にすべての他人でもある」、というのが「SB量子神学」の主張です。あるいは、「現在のこの自分は、一瞬前はすべての他人だった」「現在はこの自分でも、一瞬後はすべての他人に変わる」と表現することもできます。存在するあらゆる心M1、M2、M3、…のすべてが、実は自分の心なのだと認識すれば、他人の喜びは自分の喜びに変わります。

                【2】
            人生の選択を間違えてしまった。

 これは誰もが経験するでしょう。若い頃、もっと勉強しておけば良かった。勇気を出して、片思いの恋人に告白すれば良かった。魔が差して、罪を犯してしまった。ギャンブルに夢中になり、借金を抱えてしまった。…等々。あの時自分は、Aを選択してしまったが、それが失敗であり、Bを選択しておけば良かった…という後悔です。
 「SB量子神学」は量子力学の多世界解釈を取ります。この世界Aでは、自分はAを選択した「自分A」ですが、別に世界Bも存在し、そこにはBを選択した「自分B」がいる、と考えるのが多世界解釈です。しかも自分は、「自分A」と「自分B」の両方を同時に体験している、あるいは、「自分A」と「自分B」の間を一瞬一瞬行ったり来たりしている、というのが真相です。「「自分A」は死ぬまで「自分A」のまま」、という実感が錯覚だと悟れば、自分は同時にあらゆる選択肢を体験し、全知全能の「神」の視点で、様々な人生を楽しんでいることに気付くでしょう。

                【3】
            若い日の自分には戻れない。

 これも、すべての人間に共通した悩みであり、自分の今後の体験を(*)だと思い込んでしまったのが原因です。
 現在自分は70才だとしましょう。「SB量子神学」だと一瞬後に、自分の20才の時に戻れます。ただし、20才の自分に戻った時、「一瞬前は70才だった」という記憶は持てません。逆に言うと、現在70才である自分は一瞬前には80才の自分でもあったのです。もちろん70才の自分に「一瞬前は80才だった」という記憶は有りません。
 自分の寿命を100才だとし、時間の流れを、
   自分(X才)→自分(現在)→自分(Y才)
と書くならば、XもYも、0≦X≦100、0≦Y≦100、のすべての数値を取れます。現在が100才だとすると、このまま100才で死ぬ自分もいますが、死ぬ直前に任意のY才(0≦Y≦100)の自分に戻り、もう一度人生をやり直す自分もいます。(もっと正確に言うと、自分(現在)の一瞬前も一瞬後も、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…です。これらの中には、友人の心、彼女の心、犬の心、猫の心、…もすべて含まれます。)

                【4】
            被害者である自分は加害者を許せない。

 加害者を他人だと思うから、憎しみが生じてしまいます。「被害者も自分、加害者も自分」だと気付けば良いのです。
 それから、自分の住む世界だけが唯一の存在だと思い込むと、「なぜこんな不幸な事件が起きたのだろう?」「加害者が別の行動をしてくれていたら、こんな事件は起きなかったのに…」と、悔しい思いが生じてしまいます。でも本当はそうではなくて、あらゆる世界は実現しています。つまり、「この世界」では不幸な事件が起きてしまいましたが、「別の世界」では起きていません。逆に自分が相手を殺してしまい、加害者になってしまった「あの世界」も実現しているはずです。
 「この世界」だけが現実だと考えず、「この世界」も「あの世界」もすべて架空の世界であり、起こり得るすべての状況をシミュレーションして楽しんでいるだけ、と考えます。「この世界」が現実ではなく夢であると思えれば、どんな憎しみ・苦しみ・悲しみも超越できるはずです。

                【5】
            不幸な人生に耐えられず自殺したい。

 神学の最も深刻な問題として、こういう論法が有ります。もし神が、「全知全能である」と「慈悲深い」の2つを満たしていれば、この世で苦しんでいる人間たちを、すぐに助けてくれたはずです。ところが現実には、神は苦しんでいる人を放置したままで、何もしてくれません。背理法により、神は「全知全能でない」か、または、「慈悲深くない」か、どちらかになってしまいそう、…という話です。
 しかし神は、あらゆる人生体験をコレクションにして永久に保存し、実際にすべての人生体験を楽しんでおり、それが人間個人個人の心だと考えてみましょう。するとこの謎が氷解します。人間1人1人の心が神の分身であり、あらゆる人生体験を楽しんでいる神なのです。だとしたら、幸福な人生ばかりでは面白くありません。思いっきり悲しい人生、思いっきり苦しい人生なども、有った方が良いのです。
 もし人間が一生に一度しか食事ができなければ、できるだけ美味しい物を食べたいと思うでしょう。しかし、実際には、一生の間に何度も食事ができるので、たまには苦いビールや酸っぱいラッキョウも食べてみたくなるのと同じです。
 こう考えることで、自分の人生の苦しみ・悲しみがすべて楽しみに変わる気がします。自分の人生が幸福なら、思いっきり幸福を楽しめば良し。自分の人生が不幸なら、思いっきり不幸を楽しめば良し。1人の人間である自分は、実は神の分身であり、神にとって人生は一度だけではなく、無数に体験できるのですから。


 この「人生の悩み・苦しみ・悲しみを完全消滅させる方法」は、Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)《メールマガジン1~30》』(ASIN:B01AP012EU)の中に、詳しい説明が有ります。
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