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【補足説明13】大乗仏教の「真如」【4】~【6】

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なし 【補足説明13】大乗仏教の「真如」【4】~【6】

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/14 19:40
SumioBaba 
    【補足説明13】大乗仏教の「真如」【4】~【6】

  【4】神は理解された時、もはや神ではない?

 -----真如を絶対否定として捉えるこの視点は、大乗の中の禅宗文献に多く見いだされる。たとえば禅宗の祖である菩提達磨は、梁の武帝から聖なる教えの第一原理を尋ねられた時、哲学者のように長くてくどくどしい説明などはせず、簡潔に「まったくのからっぽで、聖なるものなどなにもない」と応えている。武帝は困惑し、この聖なる指導者の言葉をどう理解したらよいのか分からなかった。彼は当然、このようなぶっきらぼうな答えなど予想していなかったので非常にがっかりし、そしてさらに次のような質問を試みる。「それなら、私の前に立っているのは一体何者ですか」と。…。達磨はただ「知らん」と応えただけであった。この「知らん」という言葉は不可知論的な意味で理解してはならない。それは「神は理解された時、もはや神ではない」というのと同じ意味なのである。…。大乗仏教徒は往々にして、「絶対的真如はからっぽでありかつ、からっぽでない。空でありかつ、不空である。存在しておりかつ、存在していない。有にしてかつ、非有。一にしてかつ多。これでありかつ、あれである」といったパラドキシカルな表現を用いたのである。-----

 このへんから仏教は、哲学から宗教へと変質したように感じます。もともと仏教は、宗教というよりも哲学だったように思います。ところが、「真如」の謎を言葉で表現することを放棄し、修行を通して実感する方を重視したことにより、宗教的色彩が濃くなったのでないでしょうか。

  【5】維摩の一黙、響き雷の如し

 -----〔雷のごとき沈黙〕あるとき文殊が多くの菩薩を連れて維摩菩薩を訪ねてきたが、その時維摩は、その菩薩たちに、「どうやったら不二の法門に入ることができるのか、その点に関しての見解を語っていただきたい」と質問する。それに対してある者は「生と死は二つのものであるが、法そのものは生まれもしないし死にもしない。このことを理解した者は不二の法門に入ったと言われるのである」と答えた。…。他にもたくさんの答えが、リーダーである文殊を除いたすべての菩薩たちから提示された。そこで維摩は、その文殊に対して、自分の考えを述べるよう求め、文殊は次のように答える。「私の考えるところを言葉にするなら次のようになるでしょう。全く言葉がなく、言説がなく、いかなる指標も示さないものは認識することができず、一切の質問と応答を超えてしまっている。これを知ることが不二の法門に入ることと言われるのである」。最後に文殊が、維摩に向かって、不二に関する彼自身の意見を語るよう求める。しかし維摩は完全な沈黙を守り、一言も発しなかった。すると文殊は「大いに結構である。不二の法門は、文字も言葉も全く超越してしまっているものなのだ」と叫んで、それを賞賛したのであった。-----

 「不二法門」とは、常識的には「生」と「死」のように明らかに異なると分別される「二」を、敢えて分別せずに「不二」と見なすことで、何ものにも囚われぬ自由な境地に到達することだ、と説明されています。ただし、このように言葉で説明する事自体が「不二法門」の意味を捻じ曲げてしまうので、黙り込んで何も答えなかった維摩だけが、真の理解者だと評価された訳です。しかしこれには不満です。科学はどんな謎も、数学という言語で記述し解明できるものと信じます。

  【6】「不二法門」は言葉で説明できない?

 例えば量子力学でも、「1個の素粒子は「粒子」か「波」か?」という難問が有りました。禅問答ふうに書けばこうなります。弟子=「粒子ですか?」、師匠=「いや、波だ」、弟子=「波ですか?」、師匠=「いや、粒子だ」。こんな問答で弟子が悟れるはずが無いし、師匠の方も理解しているとは思えません。現実にはどうなったかというと、量子力学はフーリエ変換/逆変換という数学的手法により「粒子」と「波」とを統一し、この謎を完全解明しました。まさに科学の勝利です。そしてこういう時、絶大な力を発揮するのが数学です。

 「真如」の説明はこうでした。-----「真如とは存在するものでも非存在なるものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在しないのでもないというのでもない。」-----矛盾していて全く無意味です。
 そこで、量子力学の多世界解釈を利用します。シュレディンガーの猫の生死を観測した自分は、「生」だった世界W1に居る「自分1」と、「死」だった世界W2に居る「自分2」とに分裂します。世界W1は、「自分1」にとっては「存在する」ですが、「自分2」にとっては「存在しない」です。世界W2は、「自分2」にとっては「存在する」ですが、「自分1」にとっては「存在しない」です。これだと何も矛盾は無く、正確に記述できています。世界W1も世界W2も、以下のダブル・トートロジーが成立しているだけです。
   「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」と認識する。
   「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」と認識する。
こう考えると、「なぜ存在するのか?」、「なぜ存在しないのか?」という謎自体が無くなります。
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