メインメニュー
PR
facebook
別フォーラムへ

大乗仏教の「真如」【1】~【3】

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

なし 大乗仏教の「真如」【1】~【3】

msg# 1.12
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/11 23:44
SumioBaba 
    【補足説明12】大乗仏教の「真如」【1】~【3】

  【1】「真如」は自然科学で解明できない

 『大乗仏教概論』(鈴木大拙著、佐々木閑訳、岩波書店、2004)から、「真如」について引用してみます。「SB量子神学」でいう「神」とそっくりな、大変面白い概念です。

 -----勝義諦あるいは円成実性といわれる超越的真理は、存在論的視点からは真如と呼ばれる。それは「存在のあるがままたること」という意味である。仏教は思考と存在を分けて考えることがないので、客観世界における真如が、そのまま主観世界での超越的真理となるし、逆に客観世界における超越的真理が主観世界での真如ともなる。したがって真如は仏教における神性であり、一切の起こりうる矛盾を統合し世界の事象の方向性を自ら指し示す最高原理に到達するためのあらゆる精神的努力が成就したことを示す指標となるものである。つまりそれは存在の究極的公理なのである。先に述べた円成実性と同様、それは論理的知識の領域にも感覚的経験の領域にも属さないので、自然科学が一般法則を見いだすのに用いる普通の知的探求法によっては理解することができない。そしてそれは仏教徒に言わせれば、いわゆる宗教的直観と呼ばれるものを発揮する能力のある者によってしか把握され得ないものである。-----

 早くも、「(真如は)自然科学が一般法則を見いだすのに用いる普通の知的探求法によっては理解することができない」という主張が出て来ました。この後さらに、「(真如は)言葉では正確に説明さえできない」という主張が出て来ます。

  【2】「真如」は言葉で説明できない

 -----馬鳴は『大乗起信論』の中で、この第一原理の限定不可能性を語っている。…。したがって馬鳴は、このような存在の、究極的性質を明確に語ることはどのようなかたちであれ避けたかったのであるが、我々凡人が自分の考えを表明し、それを他の人たちに伝えるには言語以外に方法がないため、彼は最良の方法として、「真如」すなわち「存在のあるがままたること」、もっと簡単に言えば「そのようであること」という語で表現することにしたのである。このように絶対的視点から名付けられた真如というものは、存在のカテゴリーにも非存在のカテゴリーにも属さない。そして狭い相対性の範囲に留まっている人は、その本当の姿を把握することはできないのだと言わざるを得ない。-----

 「真如」の本質は「何ものにも限定されない」あるいは「何ものにも縛られない」です。もし「真如とは○○○である」と説明してしまうと、「真如」は「○○○である」と「○○○でない」のうち「○○○である」の方だけに限定されてしまいますが、それがダメなのです。「真如」は「何ものにも限定されない」であるため、「○○○である」も「○○○でない」も、「真如」に含まれねばなりません。だから、「真如」を言葉で表現した途端に「真如」ではなくなり、それゆえ「真如」は言葉で表せないものとされます。
 「SB量子神学」でいう「神」も同じ困難にぶつかりました。「神」が本当の意味で「全知全能である」ためには、「全知全能でない」を放棄する訳にはいかず、「全知全能である」と「全知全能でない」の両方を満たした時に初めて、本当の意味で「全知全能である」になれるのでした。「SB量子神学」でいう「神」は、この「真如」と殆ど同義語だと考えて下さい。自然科学で解明不可能とされ、言葉でも正確には表現できないというこの「真如」を、何とか自然科学で解明しようとするのが「SB量子神学」です。

  【3】「真如」の定義は矛盾だらけ

 -----〔限定不可能性〕絶対的真如は、本質的にすべての限定を拒む。「それはなになにである」という言い方さえできない。なぜなら、「それはなになにである」という場合には、必ず「それはなになにではない」という対立項が想定されているからである。存在と非存在は、主観と客観、心と物質、これとあれ、一と多といった概念と同じく、相対的な言葉であり、対立項があって初めて考えることのできるものなのである。したがって我々が自分たちの不完全な表現機能によってそれを表そうとするなら、「それはそうではない」としか言いようがないということになるであろう。それゆえ大乗仏教徒は普通、絶対的真如を空性として表すのである。しかし空性という、この最も重要な語を、より完全に解釈するなら、馬鳴が言うように「真如とは存在するものでも非存在なるものでもなく、存在しかつ存在しないものでもなく、存在せずかつ存在しないのでもないというのでもない。それは一なるものでなく、多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでもなく、一にしてかつ多なるものでないというのでもない」という言い方をすべきであろう。-----

 量子力学の多世界解釈を利用しないと、あからさまに矛盾が生じる訳です。確かに「真如」は、「○○○である」と「○○○でない」の両方を満たしたものなので、1つの世界の中で記述しようとすると、すぐに矛盾が生じます。多世界解釈を採れば、この矛盾は解消できるはずなのです。
投票数:0 平均点:0.00
返信する

この投稿に返信する

題名
ゲスト名
投稿本文

  条件検索へ



ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失  |新規登録
PR
twitter
Created by: twitter website widget